九品官人法から科挙へ(魏の最大の失政か)
publish: 2019-01-15, update: 2019-01-22
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この記事は、郷挙里選、九品官人法、科挙という人材登用制度の変遷を取りまとめたものです。 九品官人法の制定については年表の220年も併せてご参照ください。
概要
まず、それぞれの制度が施行された時代を整理します。
- 郷挙里選:前漢の武帝の時代(紀元前134年頃?)に制定
- 九品官人法:三国時代の魏の建国(220年)とともに制定、隋の文帝の時代(583年)に廃止
- 科挙:隋の文帝の時代(598年)に制定、清末(1904年)に廃止
三国志が好きな人は学校の歴史の授業において三国時代がごく僅かしか扱われていないことに気付きます。 そして、群雄たちの活躍を押しのけて、堂々と教科書に載っている九品官人法などの地味な言葉に違和感を感じます。 三国志演技には九品官人法の説明などありません。 では、なぜ九品官人法が教科書に載るのでしょうか。 それは、人材登用制度というものが古今に限らず、当時の社会を構築する重要な要素であり、 その後の数百年という長きにわたって時代や歴史を作り出すものであるからです。
それぞれの人材登用制度
任子
郷挙里選より以前の人材登用制度は、有力官吏の子弟から人材を登用するというものでした。 これを任子制と呼びます。 法として施行された記録もあるようですがその起源は明確ではありません。 おそらくこの形態の人材登用は組織において自然発生的に生まれるもののように思います。 私たち現代人は、二世が無条件で優秀ではないことくらい頭では理解していますが、立派な人物の子にはどこか期待して見てしまう節はないでしょうか。 親が築き上げた遺産を子に受け継がせたいと思うのは自然なことです。 任子制は実績を上げた人物の子や一族を登用するものですので、登用される本人の人格や能力は評価されませんでした。 もちろん全く評価されなかったことは無いでしょうが、能力の乏しいものが政治に参加することによって、政治のゆがみや遅滞が発生したことは否めないでしょう。 登用された後に実績を挙げなくては子が登用されることは無いという自浄作用が働けば任子制も悪いものではありません。 任子制は制度としては緩いものであり、緩いがために社会に対する影響も良くも悪くも小さかったと言えます。
郷挙里選
地方の長官が優秀な人物を推薦する制度です。 人材の能力低下や固定化を防ぐために任子制の枠組みを外し、任子制では得られない優秀な人材をより広く集めるのが目的でした。 推薦者は孝廉、賢良、方正、直言、文学、計吏、秀才などの科目に分けて、それぞれの科目ごとに優れた人物を推薦しました。 後漢以降、特に重視されたのが孝廉(親孝行の孝と清廉の廉)です。 人物を評価するためにはその人物を良く知る必要があります。 したがって、推薦は中央政府から派遣される地方長官だけではなく、地方の有力者たちを交えた合議によって行われました。
郷挙里選は簡単に言えば推薦制です。 したがって推薦制の一般的な弊害は郷挙里選の弊害として現れました。 被推薦者が推薦者におもねる傾向は今も昔も変わりません。 賄賂はもっとも強力な常套手段と言ってよいでしょう。 そして賄賂などの手段を行使できる経済力を持った存在が豪族でした。 したがって、地方の有力豪族が中央政界に進出し一定の影響力を持つ傾向が生まれました。
九品官人法
中央から任命される中正官が人物を評価する制度です。 豪族によって人材登用がコントロールされがちな後漢という時代を鑑みて、魏は人材登用を中央政府にコントロールさせようと改革を図りました。 その根底には人格や能力によって人材は登用されるべきという目的があります。 人物を9ランクに評価することが九品官人法の語源ですが、具体的に中正官がどのように人物を評価するのかが明確ではありません。 結果として、中正官と強い結びつきを持つことができるものが高い評価を得ることができるようになります。 賄賂を用意できる有力豪族が推薦される郷挙里選の構図は、皮肉にもそのまま生きて九品官人法の構図になります。
九品官人法の特色は9ランクの評価の存在です。 ランクに応じてつける役職が異なり、当然のことながらランクが高ければより権限の強い重職に就くことができます。 そして、出世によってランクも上がりますが、ランクアップできる回数は限られていました。 つまり、より高位に上るためには登用されてからの実績よりも、いかに高いランクで登用されるかが重要だったのです。 中央に進出した豪族たちは自分たちの子弟により良いランクを与えるよう動きます。 高いランクは豪族たちによって独占され、豪族たちに受け継がれていく中で、豪族は貴族という支配階級に変化していくのです。
豪族と貴族の定義はおおむね次の通りで差し支えないのではないでしょうか。 つまり、豪族とは地方の有力者であり、貴族とは生まれながらの支配階級です。 後漢までは豪族は政治に影響力を持ちつつも、あくまで地方有力者でした。 西晋以降、九品官人法は人材登用という制度の意義を失い、貴族の既得権を保護する目的を持った貴族階級のよりどころとなるのです。
九品官人法は、五胡十六国時代、南北朝時代を経て、一貫して南朝で採用されましたが、 面白いことに異民族国家であった北朝ではほとんど採用されませんでした。
科挙
以上の人材登用制度の変遷の中から生まれた一つの完成形が科挙です。
科挙の優れていた点は、家柄に関係のない公平な試験だったということでしょう。 貴族階級が全盛の時代で、貴族の家柄に生まれたものだけが国政に参加し、家柄の高低を変える術のなかった当時の価値観において、だれでも科挙を受けることができ、科挙に受かれば政治に参加できるという考え方は革命的なものでした。 もっとも、科挙に合格するには英才教育が必要で、そのような教育環境を作ることができたのは貴族階級などの富裕層でした。 科挙は貴族の既得権益を脅かすものであり、貴族に対しては任子制が並行して実施されました。 これは、いわば貴族に対する懐柔策と言えるものですが、科挙が浸透し、科挙の合格が一種の権威として認知されるようになると、貴族すらも科挙への合格を目指すようになります。 貴族は生まれながらにして他に侵されることのない権力を有し、その血統が何百年も続いたことを考えれば、貴族と言えども科挙に合格しなければ没落しかねないという事実は、旧来の価値観とは一線を画すものでした。 科挙の出現によって貴族階級が唐突に消滅することはありませんでしたが、隋、唐の時代を経て、貴族階級の土台は徐々に失われ、唐の滅亡とともに貴族の存在は消え去ります。
しかし、科挙も万能ではありません。 科挙は、受験者の増大と、不正防止の対応に追われて徐々に複雑化します。 一方、科挙の受験者も、政治への参加を目的とするのではなく、科挙の合格によって得られる権力や富貴を目的とするようになります。 科挙を合格した官吏は、政治への興味を持たず、政治を俗世間の出来事として卑しむ風潮すら生まれました。 はからずも科挙は、優秀な人材を登用するという目的からは逸脱した制度となり、清の時代になって西洋諸国に後れを取る原因となりました。 科挙は驚くべきことに20世紀に至るまで、およそ1300年間にわたって実施されました。
まとめ
大雑把にまとめると以下の経緯をたどります。
- 人材登用制度の目的は、優秀な人材を登用して国を発展させること
- もっとも初期の考えは、優秀な人の子供は優秀なはずという考え(血統や家庭教育の重視)によるもの。これが任子制
- しかし、優秀な人の子供が必ずしも優秀ではなかったし、国の発展とともに優秀な人材が育ち、さらなる優秀な人材が求められた。
- そこで、在野の人材を登用しようとして郷挙里選が生まれた。
- 郷挙里選は人材を登用するにあたって、地方の有力者による推薦の形を取ったために、被推薦者から推薦者への賄賂が横行。その財力を持つ豪族が幅を利かせるようになる。
- 豪族主体の人材登用の力関係を中央の朝廷に戻そうとしたのが、九品官人法。
- 中央から派遣する中正官に人材の評価を行わせるが、賄賂による癒着が促進し、ランク付けの制度によって家格が固定化し、豪族が貴族化した。
- 貴族の存在は人材登用制度の本来の目的からはかけ離れたものであり、人材登用制度の目的に回帰しようとしたのが科挙。
九品官人法は220年に陳羣の発案で魏の建国とともに制定されました。 九品官人法が魏の失政だったか判断するのは難しいところです。 確かに、司馬懿は地盤の構築に九品官人法を利用した節(州大中正)もあります。 貴族が皇帝以上に実権を握っていた背景と、科挙の登場まで統一王朝が生まれなかった(あるいは短期に終わった)事実には、因果関係を見ることもできます。
人材登用制度が重要と考えられているのは、その制度が、その後、数百年に渡る社会構造を決定するものだからです。 九品官人法は、豪族が権威を揮いつつあった当時の社会に、新たな切り口を入れ、優秀な人材を登用することを理想としていました。 ところが、九品官人法は、結果として豪族の権威をさらに強め、豪族の地位を固定化して貴族に至らせるものになりました。 そして、その貴族による貴族社会は、その後400年に渡って継続するのです。
教科書から見る九品官人法は実に味気のないものです。 しかし、人材登用制度の変遷と、制度が社会に及ぼした影響を知ると、九品官人法の面白さが分かります。