魏晋南北朝時代の興亡概略
publish: 2021-04-21, update: 2021-08-11
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概要
後漢の滅亡から、隋による統一までの目まぐるしい興亡の遷移を、簡単な勢力地図付きで概略としてまとめました。 細かな領土の変遷までは立ち入らず、王朝単位の興亡に主眼を置いています。 地図の元データは以下より拝借しました。
興亡の遷移
25年:後漢成立
222年:三国鼎立
三国時代の始まりについてはいくつかの定説がありますが、概ね以下の点が考慮されます。
- 184年:黄巾の乱によって後漢の統治能力が著しく失われた【広義】
- 220年:曹丕が後漢の献帝・劉協から禅譲を受けた【狭義】
- 221年:劉備が蜀を立て皇帝に即位した
- 222年:孫権が独自の元号を立て魏から独立した【最狭義】(皇帝即位が229年)
263年:蜀滅亡
魏は元帝・曹奐の時代に、司馬昭の命により鄧艾と鍾会の二将が蜀へ侵攻し、これを攻略します。 その後、蜀の遺臣である姜維と鍾会が反乱を起こしますが、直ぐに鎮圧されて蜀の旧領はほぼ全てが魏領となります。
265年:魏滅亡・西晋成立
蜀攻略により司馬昭の功績は最高潮となり、司馬昭は晋公、次いで晋王に封じられます。 265年、病没した司馬昭の跡を継いだ子の司馬炎は、魏から禅譲を受けて西晋を建てます。
280年:呉滅亡
西晋は279年から大軍を南下させて呉を攻略します。 これにより、後漢の滅亡以来、およそ100年ぶりの天下統一を西晋は成し遂げます。
304年:前趙・成漢成立
西晋の武帝・司馬炎の死後(290年)、西晋は度重なる王族同士の権力闘争により、その統治能力を大いに低下させます。これを八王の乱と呼びます。 全土で、反乱や武装難民などが蜂起し、西晋の中央集権的な体制は分断されます。 国家としての体裁を早くから確立したのが四川地方の成漢と、河東地方の前趙です。 西晋の威令は辺境ほど届かなくなり、各地方には、西晋に臣従しつつも、 自衛のために、後の国家を成す自立的な基盤が成長しました。
317年:西晋滅亡・東晋成立
前趙は西晋の首都である洛陽、長安を立て続けに陥落させ西晋を滅ぼします。 これにより、西晋の残党勢力とも言える、前涼や前燕が半ば独立した勢力として割拠します。 一方、西晋の滅亡を見て取った江南では、司馬睿が西晋の後継を称して東晋を建てます。
319年:後趙成立
前趙の武将である石勒(せきろく)は、河北に強大な勢力を築いていました。 前趙が靳準の乱により騒擾すると、石勒は前趙から独立して後趙を建てます。
329年:前趙滅亡
後趙の石勒は、洛陽西郊の決戦において前趙の劉曜を捕えて処刑し、前趙の首都・長安を陥落させます。 前趙はしばらく残党勢力が抵抗しますが、間もなく滅亡します。
347年:成漢滅亡
成漢では末主・李勢の代になると政治が腐敗し、国力が弱体化していました。 東晋の桓温は成漢攻略の好機を見て、成漢を攻略します。
351年:後趙衰退期
後趙は武帝・石虎の死後(349年)、大いに凋落します。 後趙の権臣であった冉閔は、立て続けに皇帝の廃位を行い、ついに自らが皇帝に即位して冉魏を建てます。 しかし、冉閔による後趙旧領の掌握は部分的であり、関中方面では前秦が独立し、後趙のかつての首都・襄国では後趙の残党勢力が抵抗をつづけました。
352年:冉魏滅亡
冉魏は後趙を滅ぼしますが、その冉魏も中原への進出を目指した前燕によって滅ぼされます。 これにより、華北は前秦と前燕に東西を分割されます。 冉魏はその統治期間の短さから五胡十六国の定義に含まれませんが、後趙滅亡の直接的な起因を作り、前秦、前燕の勢力拡大を誘発した点で、重要な国です。
370年:前燕滅亡
前燕では、後世、当代随一の名将とされる慕容恪が病没して以来(367年)、国威の弱体化が進みました。 前秦の宣昭帝・苻堅は王猛に命じて、前燕を攻略します。
376年:前涼・代滅亡
前秦は、苻堅の優れた内政のもと国力を拡充させ、その国力をもって対外政策を行い、前涼、代を攻略して華北を統一します。 これは五胡十六国時代において唯一となる偉業です。
389年:前秦衰退期
天下統一を目指した前秦の苻堅は、大軍を催して南征しますが東晋に敗北します。 これを淝水の戦いと呼びます(383年)。 この敗北により前秦は大きく動揺し、諸勢力が蜂起して前秦は分裂します。 このとき独立した、北魏、後燕、後秦などは、かつて前秦が滅ぼして服属させてきた、代、前燕、後趙の、王族や遺臣によって建てられたものでした。
394年:前秦滅亡
後秦の姚萇は苻堅を捕えて処刑します(385年)。 後秦の残党勢力は各地で抵抗しましたが、いずれも後秦、西秦、後燕、西燕の諸勢力に撃破されて、394年までに前秦は消滅します。
400年:後涼・後燕分裂
後涼を建てた懿武帝・呂光はかつて前秦の功臣であり、前秦の苻堅の死を知ると任地の河西回廊で独立していました(386年)。 後涼は旧前涼の領土をほぼ掌握しますが、西秦に敗北すると求心力を失って、南涼、北涼が続々と独立します(397年)。さらに、北涼は西涼と分裂します(400年)。
後燕では、成武帝・慕容垂の代は勢威を維持し、かつての前燕をも凌ぐ版図を形成しますが、慕容垂の死後(395年)は北魏の圧迫が甚だしく、北魏の鋭鋒を避けるように、龍城に遷都した後燕と山東地方で独立した南燕に分裂します(398年)。
403年:後涼滅亡
後涼では呂光の死後(399年)、後継争いと、南涼、北涼の討伐失敗が続き、後秦の文桓帝・姚興の攻撃を受けて降伏します。 以後、後涼は後秦の従属国となりますが、南涼、北涼の攻撃を受けて領地は消失します。
407年:後燕滅亡・北燕・夏成立
後燕は、北魏、高句麗、契丹という外圧に晒されます。 内紛も絶えず、昭文帝・慕容熙の代に、高雲(慕容雲)を擁立した馮跋によって政変が起きます。 以後の後燕を北燕と呼びます。
後秦の赫連勃勃はオルドス地方を拠点にして後秦から独立します。
410年:南燕滅亡
東晋では、桓玄の乱を始め司馬氏の求心力は衰え、代わって実権を握った劉裕が北伐を行って南燕を攻略します。
414年:南涼滅亡
南涼は、北涼と西秦との度重なる争いにより疲弊し、西秦に降伏します。 南涼は3代18年という短命に終わりましたが、初めて拠点を青海地方に置きシルクロードの拡充に寄与しました。
417年:後秦滅亡
東晋の劉裕は、北伐して弱体化した後秦を攻略します。 この北伐で西晋以来の都であった洛陽、長安の失地を回復します。 劉裕は、相次ぐ北伐の成功により、宋王に昇って東晋における権力を盤石にします。
420年:東晋滅亡・宋成立
劉裕は東晋の禅譲を受けて皇帝に即位し、宋を建てます。
421年:西涼滅亡
北涼が西涼を攻略します。
431年:夏・西秦滅亡
北魏は、太武帝・拓跋燾の時代には成熟を見せ、積極的な対外政策を取ります。 北魏に圧迫された夏は、押されるように西秦を滅ぼすものの、北魏には対抗しえず滅亡します。 東晋の北伐による南燕や後秦の攻略は、結果として後背にいた北魏を利するものでした。
436年:北燕滅亡
北魏が北燕を攻略します。
439年:北涼滅亡・華北統一
北魏が北涼を攻略します。 北魏が、前秦以来、およそ50年ぶりに華北統一を成します。 これをもって五胡十六国時代の終わりとし、南北朝時代の始まりとします。
479年:宋滅亡・斉成立
宋では、元嘉の治と呼ばれる、平和で安定した治世が長く続きましたが(424年~453年)、北魏の華北統一が成ると、北魏の南下が憂慮され、その外患によって宋の国力は衰退しました。 さらに、宋の国内では王族同士の暗闘が重なったため、実力を得た蕭道成が宋から禅譲を受けて、斉を建てます。
502年:斉滅亡・梁成立
斉では、武帝・蕭賾の死後(493年)は、王族同士の権力争いが起こり、急速に衰退します。 一族の中でも輿望を集めた蕭衍は、斉から禅譲を受けて、梁を建てます。
534年:北魏分裂
北魏では、胡漢融合の反発から軍閥による大規模な反乱が起きます(523年)。 これを六鎮の乱と呼びます。 六鎮の乱はやがて収められるものの、北魏の朝廷に与えた動揺は大きく、副次的に北魏は西魏と東魏に分裂して、互いに北魏の正統を主張しました。
550年:北斉成立
東魏の事実上の主導者であった高歓は、西魏より禅譲を受けて北斉を建てます。 また、高歓の武将で重鎮をなした侯景が乱をなし(548年)、後に梁を大混乱に陥れます。
554年:後梁成立
侯景の乱により、梁は実質的には死に体となり、梁を継いだ元帝・蕭繹に従わない蕭詧は、西魏の後援を得て後梁を建てます。
556年:北周成立
宇文覚が西魏から禅譲を受けて北周を建てます。
557年:梁滅亡・陳成立
侯景の乱以降、混乱していた梁では、陳霸先が政敵の王僧弁を殺害し、梁の禅譲を受けて陳を建てます。
577年:北斉滅亡
北周が、内紛続きで弱体化した北斉を攻略します。
581年:北周滅亡・隋成立
北周は武帝・宇文邕の死後、求心力が落ち、政務は外戚であった楊堅が掌握します。 楊堅は静帝・宇文闡の代に禅譲を受けて、隋を建てます。
587年:後梁滅亡
隋は、元々藩屏であった後梁を取り潰して併合します。
589年:陳滅亡
隋は陳を攻略します。 これにより、およそ300年ぶりに中華圏は天下統一されます。 以後、隋、唐による時代が、およそ300年に渡って続きます。