北涼
(section)publish: 2020-12-31, update: 2026-07-10
目次
章節
標籤
概要
| 名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
|---|---|---|---|
| 北涼 | 397 | 439 | 42 |
北涼は段業と沮渠蒙遜によって建てられた王朝。 五胡十六国に数えられる国の中で最後まで存続した国にあたる。
主な出来事
背景
沮渠蒙遜は盧水胡と呼ばれる胡族の出身だが、盧水胡の定義自体が匈奴の一種族や月氏、羌の説があって明らかではない。 もともと異国の影響力が強い地域であるから、盧水一帯に居した雑多な胡族という意味で表記が定着したと思われ、その表記は後漢中期まで遡ることが出来る。 沮渠蒙遜の父・沮渠法弘は前秦の中田護軍を務めた。 前秦が崩壊すると沮渠蒙遜は禍を避けるためにあえて遊蕩することで自晦した。
- 397
- 北涼が成立する
呂光は西秦征討に失敗した責任を沮渠羅仇、沮渠麹粥の兄弟に負わせて処刑した。 これが沮渠一族の決起を誘引した。 沮渠蒙遜が臨松において挙兵すると、呼応して従兄の沮渠男成も建康太守・段業を擁立して挙兵した。 三人は協力して楽涫を占拠すると、段業を建康公とし元号を神璽とした。
- 400
- 西涼が独立する
- 401
- 沮渠蒙遜が段業を殺して張掖公を自称する
段業は京兆郡を本貫とする漢人である。 軍権なく実効力を持たない段業を沮渠男成が擁立した理由は、まさに彼自身が漢人であったという点に尽きる。 前涼が漢人王朝として長期政権を維持したように、沮渠男成もまた漢人の段業を擁立することで、氐族の呂光に対抗する求心力を得ようとした。 しかし、沮渠蒙遜にはそのような観念はなかった。 また、段業は沮渠男成の支持を得ていたにもかかわらず、彼らの傀儡であることに不満を持った。 その方向性の不一致が三人の対立を生んだ。 沮渠蒙遜は沮渠男成の謀反を誣告して段業に沮渠男成を処刑させると、さらに沮渠男成を殺害した罪を数えて段業を処刑した。
- 411
- 南涼の姑臧を占領する
- 421
- 西涼を滅ぼす
- 433
- 沮渠蒙遜が没する
- 439
- 北魏の拓跋燾が姑臧へ親征する(北涼の滅亡)
系譜
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段業
文王
1
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沮渠暉仲帰
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沮渠遮
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沮渠祁復延
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沮渠羅仇
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沮渠麹粥
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沮渠法弘
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沮渠蒙遜
武宣王
2
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沮渠牧犍
哀王
3
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沮渠無諱
拓王
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沮渠安周
武拓王
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- 左側が年長者
- 数字は継承順
- 継承に関係のない筋は省略している場合がある
沮渠蒙遜の武宣王は北魏によるもの。 当時、沮渠蒙遜は北魏に人質を差し出して臣従し、北魏の涼州牧、涼王の立場にあった。
歴代君主
段業
?-401年。北涼の初代王。文王。漢人。後涼の建康太守。沮渠蒙遜に擁立されて反乱を起こし後涼から自立した。後涼と争い河西西部を支配した。実権を握る沮渠蒙遜を除こうとするが、逆に沮渠蒙遜に討たれた。
沮渠蒙遜
368年-433年。北涼の第2代王。実質的な創建者。武宣王。盧水胡匈奴の出身。後涼に従うが、西秦討伐の失敗により一族が誅殺されると段業を擁立して挙兵した。後に対立した段業を討って北涼を支配した。後涼、西涼、南涼、後秦、西秦、北魏と抗争した。病没。在位32年。
沮渠牧犍
?-447年。北涼の第3代王。哀王。沮渠蒙遜の第3子。沮渠蒙遜が病に倒れたとき世子で弟の沮渠菩提が幼いため立太子された。北魏と婚姻外交を行ったが、拓跋燾の妹である皇后武威公主が毒殺されると北魏の侵攻を受け捕らわれた。助命されるが財産隠匿の罪で処刑された。