賈南風
publish: 2021-04-24, update: 2021-10-25
257年-300年。司馬衷の皇后。賈充の3女。嫉妬深く権謀を好んだ。司馬炎からは5つの欠点を指摘されたが、賈充派の強い後押しがあって太子妃となった。楊駿の殺害後は八王の乱の中心人物となり、司馬亮、衛瓘を初めとする宗族や重臣を粛清した。皇太子・司馬遹殺害の罪で、司馬倫に処刑された。
補記
当初、司馬炎は司馬衷の后に衛瓘の娘を考えていた。 司馬炎が、衛瓘の娘の美点と、賈充の娘(賈南風)の欠点について、それぞれ五つずつ、以下の通り挙げている(括弧内が賈南風の欠点)。
- 賢才(嫉妬深い)
- 家に子が多い(少ない)
- 容貌が美しい(醜い)
- 背が高い(低い)
- 肌の色が白い(黒い)
しかし、賈充に阿った荀顗、馮紞、荀勗は、頻りに賈南風の美貌と才徳を称えたため、ついに司馬炎は、賈南風を后(当時は太子妃)に立てざるを得なかった。
賈南風には、後の悪政の評価に相まって、悪女の評価が数多く残る。
- 夫・司馬衷の子を妊娠した側室を、胎児ごと殺す
- 司馬瑋を唆し、楊駿一族を粛清する
- 司馬瑋に、司馬亮と衛瓘を処刑させる
- 司馬瑋を、司馬亮と衛瓘殺害の罪で処刑する
- 乱れた異性関係に耽る(関係を持った者は使い捨てるように殺された)
- 皇太子・司馬遹を謀叛の罪で殺害させる
最終的に、彼女は司馬遹殺害の罪で司馬倫に処刑される。
関連
王渾
223年-297年。字は玄沖。并州太原郡晋陽県の人。王昶の子。京陵侯を継承したが曹爽の失脚で免官となった。懐県県令として復帰以後は累進し豫州刺史、豫州諸軍事となった。呉征伐では一軍を率いて南進し、功は王濬と双璧を成した。晩年は兵権を返上し顕職を歴任しては名声を落とした。
杜預
222年-284年。字は元凱。杜畿の孫、杜恕の子。前漢の御史大夫・杜周の末裔。蜀、呉の討伐に深く関わった。政策に無駄がなく杜武庫の異名をとった。破竹の勢いの語源を残した。春秋左氏伝を研究した学者でもある。武廟六十四将の一人。詩聖・杜甫は末裔に当たる。
司馬熾
284年-313年。字は豊度。西晋の第3代皇帝。懐帝。司馬炎の第25子。司馬衷の死後、即位した。全国の反乱に応対するが、西晋の衰退を止めることは出来なかった。司馬越が洛陽を空にして出鎮したまま病死すると、前趙の攻撃により洛陽は陥落した。平陽に拉致されたのち処刑された。