王渾
publish: 2021-08-05, update: 2026-04-19
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223年-297年。字は玄沖。并州太原郡晋陽県の人。王昶の子。京陵侯を継承したが曹爽の失脚で免官となった。懐県県令として復帰以後は累進し豫州刺史、豫州諸軍事となった。呉征伐では一軍を率いて南進し、功は王濬と双璧を成した。晩年は兵権を返上し顕職を歴任しては名声を落とした。
この時代、高すぎる名声は身を滅ぼす原因であったため、名声を落したのは故意によるものと解釈できる。 事実、八王の乱は名声の高い重臣や王族が担ぎあげられて、互いに政争を繰り返したものであり、王渾はその禍を未然に避けたことになる。 王渾の没年である297年は、賈氏による専横の時期にあたり、中央職を歴任していながら王渾の晩年は事跡に少ない。 表立った政治活動を行わなかったためであろう。
なお、王戎の父と同名であるが別人である。王戎の父の字は長源となる。
関連
何進
?-189年。字は遂高。南陽郡宛県の人。何真の子。屠殺業を営む家に生まれたが、妹が後宮に入ったため、潁川太守、侍中、河南尹など歴任し大将軍まで昇った。黄巾の乱を鎮圧したが、後継争いから宦官と激しく対立し各地の軍閥を召集して後の混乱を招いた。参内したところを張譲によって殺害された。
石祗
?-351年。後趙の第7代皇帝。新興王。石虎の子。冉閔が石鑑を廃して冉魏を建てると封地の襄国で皇帝に即位した。冉閔討伐の兵を興すも一進一退し、冉閔に敗れて保身を図った配下の劉顕によって殺害された。史書によっては君主として数えられない。
甘英
生没年不詳。字は崇蘭。西域都護・班超によってローマとの国交を樹立するために大使として派遣された。条支に至って大海に阻まれ任務を断念した。大海がカスピ海、ペルシャ湾、地中海のいずれを指すかは明らかではない。ローマへ到達できなかったものの西方を伝える貴重な情報となった。