後凉
(section)publish: 2021-11-09, update: 2026-06-29
目次
章節
標籤
概要
| 名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
|---|---|---|---|
| 後凉 | 389 | 403 | 14 |
後涼は氐の呂光によって建てられた王朝。
主な出来事
背景
383年、淝水の戦いに先んじて呂光は都督西討諸軍事として西域へ遠征した。 呂光は亀茲を下して西域を服属させたが、淝水の戦いで敗北した本国との連絡が途絶えた。 当初、呂光は豊かな西域に留まろうと考えたが、鳩摩羅什や群臣の希望により本国への帰還を目指して亀茲を出立した。 姑臧を鎮した涼州刺史・梁熙は、呂光が宜禾に至るにあたってその意図を測りかね、呂光の進退を阻んだ。 ここに至ってようやく呂光も前秦の大敗と混乱を知ることとなった。 呂光は梁熙を破って処刑すると、酒泉郡太守・宋皓、西郡太守・索泮などの抵抗勢力や、尉祐の反乱を鎮めて涼州を支配下に置いた。
- 386
- 呂光が酒泉公を自称する
苻堅が姚萇に殺されたという報が姑臧へもたらされると、呂光は大安と改元し、前秦の酒泉公を自称した。 呂光にとってはあくまでも前秦への臣従を体裁とはしたが、一般にこれをもって後涼の成立と見なす。
- 387
- 前涼を再興しようとする張大豫を処刑する
- 395
- 西秦を服属させる
- 396
- 呂光が大涼天王を称する
- 397
- 南涼と北涼が独立する
後涼は河西回廊の北西(張掖以西)を領する北涼と、姑臧の南西(西平近辺)を領する南涼に分裂した。 これにより後涼本体は姑臧の周縁を領するのみとなった。 なお、400年に西涼が北涼から独立したことも含めて、これらをほぼ同時期の出来事と捉えれば、隴西から河西回廊の一帯は一挙に北涼、南涼、西涼、後涼の四つに分裂したことになる。
これは、376年に滅んだ前涼が同地において七十五年に及ぶ長期政権を運営したこととは対比的である。 分裂した四つの涼がいずれも短命に終わったのは結果的には北魏の圧迫によるところが大きい。 しかし、前涼と違って後涼がかくも簡単に分裂した背景には、漢族と胡族が雑居する地域でありながら漢人文化優勢というこの地特有の世論があった。 前涼は漢人国家であるがために東晋に称藩することで求心力を維持した。 見方を変えればこの地の知識人層は半世紀以上に渡って漢人の帝位を正当に継承する東晋の統治という理念に浴してきた。 呂光の個人的な才腕や、前秦の残党、西秦、後秦の外圧を理由に挙げることも出来るが、より根本的な前提において涼の地域性が胡族主導者による国家運営を難しくさせた。
- 399
- 呂光が没する
- 400
- 後秦に服属する
- 403
- 呂隆が姑臧を放棄する(後涼の滅亡)
系譜
-
呂婆楼
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呂光
懿武帝
1
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呂纂
霊帝
3
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呂紹
隠王
2
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呂宝
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呂隆
末主
4
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- 左側が年長者
- 数字は継承順
- 継承に関係のない筋は省略している場合がある
歴代君主
呂光
338年-399年。字は世明。後涼の創建者。懿武帝。呂婆楼の子。氐の出身。前秦の都督西討諸軍事として西域を遠征し威光を広めた。その間に前秦は淝水の戦いで敗北しており、その後の混乱を知ると自立した。旧前涼の領土を掌握したが北涼、南涼の分離が相次ぎ勢力は急速に衰えた。
呂紹
?-399年。字は永業。後涼の第2代天王。隠王。呂光の子。立太子のうえ王位を継承した。兵権を有する兄・呂纂を恐れて譲位を申し出たが、辞退された。まもなく害されることを恐れた呂纂に攻撃され、宮中で自害した。
呂纂
?-401年。字は永緒。後涼の第3代天王。霊帝。呂光の子。呂紹、呂弘の兄。庶子であったため立太子されなかった。呂紹からの譲位を拒否したが、呂弘に唆されて呂紹を廃した。後に対立し挙兵した呂弘を討った。南涼や北涼を攻撃するものの失敗し、呂超に殺害された。
呂隆
?-416年。字は永基。後涼の第4代天王。末主。呂光の弟・呂宝の子。呂纂が呂超らによって殺害されると呂超らに擁立された。相次ぐ内訌により後秦の侵攻に抗えず、降伏して長安に連行された。後に姚弼の謀反に巻き込まれ姚興に処刑された。