劉協
publish: 2021-12-04, update: 2026-04-19
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181年-234年。献帝。後漢の第14代皇帝。劉宏の子。劉弁の異母弟。董卓に擁立されて即位したが、以降、時の権力者の正統性の道具としてのみ機能し後漢王朝は実質消失した。曹丕が魏王を襲爵すると、世論の圧力により帝位を曹丕へ禅譲した。山陽公。
そもそも、禅譲とは皇帝がその位を世襲させずに有徳者へ譲ることを指すが、劉協から曹丕への禅譲は半ば強要されたものであり、この形式的な禅譲は後世に対する大きな前例となった。 とはいえ、劉協は禅譲後も山陽公として長らく寿命を全うし、「朕」の一人称の継続使用を容認され、子たちが列侯となるなど、きわめて厚遇された。 山陽郡は実子の劉懿が山陽王として封じられていた郡国で、洛陽にも近い豊かな土地であり、好意的な配慮といえる。 政治的なイデオロギーを継承しようとする蜀漢という敵国がある中で、随分と余裕のある対応であった。 後世、禅譲を行った皇帝が後に殺される例が多いことを鑑みれば、劉協から曹丕への禅譲は、その成功例とも言えるかもしれない。
ところで、生年、没年ともに諸葛亮と一致するあたりに、不思議な運命めいたものを感じざるをえない。
関連
元善見
524年-552年。東魏唯一の皇帝。孝静帝。拓跋宏の曾孫。元懌の孫。元亶の第1子。元脩が高歓の排除に失敗して宇文泰を頼ると、洛陽には皇帝が不在となったため高歓に擁立された。高歓の傀儡であり実権は高澄、高洋へ継がれた。高澄の誅殺を計画するが失敗し、高洋に禅譲した。
王琳
526年-573年。字は子珩。会稽郡山陰県の人。王顕嗣の子。姉妹が湘東王・蕭繹の妃となったため早くから蕭繹に信任された。王僧弁と共に侯景の乱を収めたが、江陵が西魏に陥落すると、陳霸先政権や後梁政権を認めず、蕭荘を擁立して北斉を後ろ盾とした。呉明徹の北伐に抗ったが、北斉の救援を得られず捕縛され、護送中に殺害された。
慕容廆
269年-333年。慕容渉帰の子。慕容吐谷渾の弟。前燕の基盤を築いた。元来西晋に帰属していたが国勢を年々弱める西晋に変わって遼西・遼東の統治体制を確立させた。引き続き東晋に臣従し遼東公に封じられた。病没。鮮卑慕容部の大人としての在位は49年。