劉協 ( りゅうきょう )

publish: 2021-12-04, update: 2026-04-19

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181年-234年。献帝。後漢の第14代皇帝。劉宏の子。劉弁の異母弟。董卓に擁立されて即位したが、以降、時の権力者の正統性の道具としてのみ機能し後漢王朝は実質消失した。曹丕が魏王を襲爵すると、世論の圧力により帝位を曹丕へ禅譲した。山陽公。

そもそも、禅譲とは皇帝がその位を世襲させずに有徳者へ譲ることを指すが、劉協から曹丕への禅譲は半ば強要されたものであり、この形式的な禅譲は後世に対する大きな前例となった。 とはいえ、劉協は禅譲後も山陽公として長らく寿命を全うし、「朕」の一人称の継続使用を容認され、子たちが列侯となるなど、きわめて厚遇された。 山陽郡は実子の劉懿が山陽王として封じられていた郡国で、洛陽にも近い豊かな土地であり、好意的な配慮といえる。 政治的なイデオロギーを継承しようとする蜀漢という敵国がある中で、随分と余裕のある対応であった。 後世、禅譲を行った皇帝が後に殺される例が多いことを鑑みれば、劉協から曹丕への禅譲は、その成功例とも言えるかもしれない。

ところで、生年、没年ともに諸葛亮と一致するあたりに、不思議な運命めいたものを感じざるをえない。

関連

裴叔業

438年-500年。裴順宗の子。裴潜の弟・裴徽の末裔。宋の時代に軍人として累進し、蕭道成の配下となった。蕭鸞と親しく信任されて北魏戦線を転戦したが、その死後、反乱を疑われて崔慧景、蕭懿らの討伐を受けた。北魏に救援を求めるも、間もなく病没した。

区星

?-187年。賊の頭目だったといい、黄巾の乱以降、治安が悪化すると将軍を自称して長沙郡を中心に荊州南部を荒らした。零陵郡の周朝、桂陽郡の郭石らが同調したが、十常侍の偽勅で長沙太守に任命された孫堅が赴任すると、ひと月余りでまとめて鎮圧された。

乞伏国仁

?-388年。字は烈祖。西秦の創建者。宣烈王。乞伏司繁の子。隴西鮮卑の出身。前秦から南単于に封じられた。淝水の戦いの前、叔父の乞伏歩頽が反乱を起こすと討伐に当たったが、淝水の戦いで前秦が大敗すると慰留されて状況を静観した。苻堅が姚萇により殺害されると独立した。

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