張春華 ( ちょうしゅんか )

publish: 2026-09-17, update: 2026-09-21

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189年-247年。河内郡平皋県の人。春華は諱。張汪の娘。司馬懿の妻。司馬師、司馬昭らの母。晋が立てられてから皇后を追贈された。諡は穆。宣穆皇后。若くして徳行を持ち、知識は人並を外れていたと評価される。気丈にして果断な性格が記録として残る。

『晋書』には夫・司馬懿との逸話が二つ記録されている。

司馬懿が曹操の命令を風痺を理由に断っていたところ、ある時、雨が降って書物を慌てて片付ける様子を侍女に目撃された。 風痺が嘘であることを曹操に密告されれば一族に禍が及ぶと考えた張春華はその侍女を口封じのために殺した。 司馬懿はこれを知って彼女を尊重した。

司馬懿が側室を持つと張春華とは疎遠になった。 ある時、司馬懿が病に伏せると、張春華は司馬懿を見舞った。 ところが、司馬懿は「いまさら何をしに来たか」と憎まれ口を叩いたため、張春華は慚恚して食事を断(た)った。 それを知って驚いた司馬懿は謝罪したが、その際も、司馬懿は「お前ではなく子供たちを心配したのだ」と言った。

二人とも我が強かったようである。 張春華は諱と生没年が珍しく割れており、史書の真偽はさておき、主体的で活動的な雰囲気を感じ取ってよいのではなかろうか。 そんな二人が夫婦を為すのだから、犬も食わない、いや史官も書かない諍いが大量にあったであろう。 司馬懿からすれば「何をしでかすか分からない女」という一種の恐怖と共に、現代的に言えば「おもしれー女」という印象があったのかもしれない。

張春華が侍女を殺したとき、史書は司馬懿の所感を以下のように記録する。

帝由是重之。1

帝(司馬懿)は是に由りて之(張春華)を重んず。 そう解釈すると、重という動詞一字には表現の広がりがあるものの、いずれにしても否定的な意味合いは感じられない。 ところで、司馬懿には仕官に関するエピソードが多く、この話もその一つに数えられる。 司馬懿が初めて推挙されたのが201年で、出仕するのが208年なので、この間の出来事と考えられる。

夫婦関係が健全であったことは、子の司馬師、司馬昭を見ればわかるような気がする。 少なくとも、後の八王の乱において八王の一人に数えられる異母弟・司馬倫とは人物の出来が違う。 子供が健全に育つ家庭環境があったことの証左のひとつである。 また、司馬師、司馬昭とは歳の離れた司馬幹を産んでいるので、なんだかんだで夫婦仲は良かったように想像できる。 諡の穆は次子・司馬昭が晋王の授爵に伴って追贈したもの。 穆はなごやか、おだやか、むつまじいを意味する。 亡き母を偲んで穆を贈った司馬昭の晩年の心境を想像するといささか目頭が熱くなる。

実子

出生順 爵位/諡号 名 生年 没年 生母 付記
1 景帝 司馬師 208 255 張春華
2 文帝 司馬昭 211 265 張春華
3 平原王 司馬幹 232 311 張春華
(女) 1 南陽公主 張春華 荀霬に降嫁

  1. 『晋書』巻三十一 列伝第一 后妃上 ↩︎

関連

司馬懿

179年-251年。字は仲達。河内郡温県孝敬里の人。司馬防の子。曹丕、曹叡の信任を得て主に対蜀戦線で実績を残し魏の軍権の頂点に昇りつめた。高平陵の変をもって曹爽ら政敵を粛清し魏晋革命の先駆けとなった。晋が成立してその始祖として祭られた。諡は宣。

宇文闡

573年-581年。北周の第5代皇帝。静帝。宇文贇の第1子。宇文贇から譲位され即位する。即位時は僅か7歳であったため、外戚の楊堅の摂政を受けた。前代から既に国内に混乱が見られ、これを収束できないために楊堅から禅譲を迫られ退位した。介国公に封じられるが殺害された。

陳叔宝

553年-604年。字は元秀。陳の第5代皇帝。後主。陳頊の第1子。父陳頊の死後即位した。施文慶、沈客卿、江総ら奸臣を重用し、自らは飲酒や詩作に耽って政治を顧みなかったため、国政は乱れて国力は衰退した。隋の攻撃に降伏し、警戒されることなく余生を全うした。在位7年。

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