張春華 ( ちょうしゅんか )

publish: 2026-09-17, update: 2026-09-18

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189年-247年。河内郡平皋県の人。春華は諱。張汪の娘。司馬懿の妻。司馬師、司馬昭らの母。晋が立てられてから皇后を追贈された。諡は穆。宣穆皇后。若くして徳行を持ち、知識は人並を外れていたと評価される。気丈にして果断な性格が記録として残る。

『晋書』には夫・司馬懿との逸話が二つ記録されている。

司馬懿が曹操の命令を風痺を理由に断っていたところ、ある時、雨が降って書物を慌てて片付ける様子を侍女に目撃された。 風痺が嘘であることを曹操に密告されれば一族に禍が及ぶと考えた張春華はその侍女を口封じのために殺した。 司馬懿はこれを知って彼女を尊重した。

司馬懿が側室を持つと張春華とは疎遠になった。 ある時、司馬懿が病に伏せると、張春華は司馬懿を見舞った。 ところが、司馬懿は「いまさら何をしに来たか」と憎まれ口を叩いたため、張春華は慚恚して食事をった。 それを知って驚いた司馬懿は謝罪したが、その際も、司馬懿は「お前ではなく子供たちを心配したのだ」と言った。

二人とも我が強かったようである。 張春華は諱と生没年が珍しく割れており、史書の真偽はさておき、主体的で活動的な雰囲気を感じ取ってよいのではなかろうか。 そんな二人が夫婦を為すのだから、犬も食わない、いや史官も書かない諍いが大量にあったであろう。 司馬懿からすれば「何をしでかすか分からない女」という一種の恐怖と共に、現代的に言えば「おもしれー女」という印象があったのかもしれない。

張春華が侍女を殺したとき、史書は司馬懿の所感を以下のように記録する。

帝由是重之。1

帝(司馬懿)は是に由りて之(張春華)を重んず。 そう解釈すると、重という動詞一字には表現の広がりがあるものの、いずれにしても否定的な意味合いは感じられない。 ところで、司馬懿には仕官に関するエピソードが多く、この話もその一つに数えられる。 少し掘り下げると、司馬懿が曹操に仕官するのは201年のことなので、この話は十二歳の少女が侍女を殺す話となる。

夫婦関係が健全であったことは、子の司馬師、司馬昭を見ればわかるような気がする。 少なくとも、後の八王の乱において八王の一人に数えられる異母弟・司馬倫とは人物の出来が違う。 子供が健全に育つ家庭環境があったことの証左のひとつである。 また、司馬師、司馬昭とは歳の離れた司馬幹を産んでいるので、なんだかんだで夫婦仲は良かったように想像できる。 諡の穆は次子・司馬昭が晋王の授爵に伴って追贈したもの。 穆はなごやか、おだやか、むつまじいを意味する。 亡き母を偲んで穆を贈った司馬昭の晩年の心境を想像するといささか目頭が熱くなる。

実子

出生順 爵位/諡号 生年 没年 生母 付記
1 景帝 司馬師 208 255 張春華
2 文帝 司馬昭 211 265 張春華
3 平原王 司馬幹 232 311 張春華
(女) 1 南陽公主 張春華 荀霬に降嫁

  1. 『晋書』巻三十一 列伝第一 后妃上 ↩︎

関連

劉顕

?-352年。石祗の属将。冉閔と戦って大敗を繰り返し、恐れるあまり石祗を始め重臣を殺害して冉閔に帰順した。一方で自立を目論み冉閔から離反するが、悉く敗れた。曹伏駒の寝返りで襄国に入城した冉閔によって処刑された。最終的に後趙に止めを刺した人物に当たる。

慕容鍾

生没年不詳。 字は道明。 慕容運の孫。 慕容制の子。 始め西燕に属して慕容永に従ったが、後に妻子を捨てて後燕に離反した。 慕容徳を補佐した南燕創業の功臣で、司徒、都督中外諸軍事、録尚書事など重職を務めた。 慕容超が即位すると失脚し、慕容法、段宏らと反乱したが失敗、後秦へ亡命した。

司馬徳文

386年-421年。字は徳文。東晋の第11代皇帝。恭帝。司馬曜の第2子。兄司馬徳宗に対する劉裕の害意を察知したが防げなかった。司馬徳宗の死後劉裕に擁立されて即位するが、劉裕による禅譲の布石であり禅譲の余儀は無かった。宋によって零陵王に封じられたが翌年殺害された。

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