西晋
(section)publish: 2020-08-16, update: 2026-04-19
目次
章節
標籤
概要
| 名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
|---|---|---|---|
| 西晋 | 265 | 316 | 51 |
西晋は司馬炎が魏の曹奐から禅譲を受けて成立した王朝。 正式な国号は「晋」だが、後に司馬睿が建てた「晋」と区別して「西晋」と呼ぶ。 280年に呉を滅ぼして後漢以来およそ百年ぶりに天下を統一したが、その統一期間は半世紀に満たない。 天下統一前後で国情が大きく変化するのが特徴で、後半期には外戚の専横と宗族の政争により急速に衰退した。 西晋滅亡後、中華全土は動乱の時代へ戻り、その期間は隋が天下統一を成す(589年)までの、約三百年間に渡る。
特徴
強力な宗室
司馬炎は、宗族を諸王に封じて、王たちに兵権を含む強力な権限を付与した。 この背景には、前王朝の魏がとった方針が考慮されている。 魏では、曹操の死後、曹丕とその弟たちが後継を巡って争ったことから、以後、魏の宗族たちは強い監視下に置かれ、任官が制限された。 このため、魏の第三代皇帝・曹芳の頃には、宗室の内紛は抑えられたものの、朝廷を主導するような有力な宗族はおらず、皇帝の権力は孤立化し、結果として宗族の弱体化をもたらした。 西晋はまさに魏の宗族弱体化をきっかけに成立したと言っても過言ではない。 これを強く自覚する司馬氏一族は、同じ轍を踏むまいとして、宗族に対する任官の制限を解き、一族の多くを王に封じた。 司馬炎の即位時には司馬氏から二十七人が郡王に封じられている。
司馬炎の意図は、宗室を盛り立てようとする肯定的なものであり、裏を返せばそれは宗族の団結を期待した司馬炎の信頼でもあった。 しかし、諸王はのちに八王の乱と呼ばれる権力闘争を始めるに至る。 強力な宗室による団結は、その総領である皇帝の強い統制があって、制御できるものだったと言わざるを得ない。 残念ながら、第二代皇帝・司馬衷は即位前から皇帝の資質を危惧された人物であり、分散した諸王の権力を制御できる能力は彼と彼の朝廷にはなかった。
八王の乱では文字通り八人の諸王が政権を争ったものであり、その構図は、八人の王が群雄割拠して抗争するものではなく、輿望を得た王が代わる代わる政権を奪取していく構図を成す。 さらに混乱に拍車をかけたのが、司馬衷の暗愚によって空白になりがちな皇帝権力を、楊氏や賈氏という外戚が埋めたことである。 彼らの専横が、諸王の政争を誘引、助長、扇動したため、八王の乱は長期化した。 宗族の有力者は、西晋の国力と世論のある限りを使って政争を続け、芋づる式に失脚していったため、かつて強力であった皇帝権力は諸王の台頭の度に弱体化し、西晋の国力は疲弊した。
主な出来事
禅譲
- 265
- 司馬炎が曹奐から禅譲を受ける(魏の滅亡、西晋の成立)
司馬炎の祖父・司馬懿は、曹操の代から仕えた魏の重臣であり、晩年に至っては軍功において並び立つ者がいなかった。 司馬懿は高平陵の変をもって曹爽一派を粛清すると、大々的に司馬氏による朝廷掌握を進めた。 司馬懿は251年に病没するが、その子・司馬師、司馬昭の兄弟によって、その権力基盤は緩やかに強化され続け、寿春三叛と呼ばれる反乱の鎮圧や、皇帝・曹髦の弑逆を経て、司馬氏に対する敵対勢力は消えていった。
極めつけは蜀討伐(263年)の功により、司馬昭が晋王に封じられたことであり、禅譲への世論はもはや誰にも止められなかった。 司馬昭は間もなく病没して皇帝にこそ即位しなかったが、このような背景のもとに盤石の態勢を整えた司馬炎は曹奐から禅譲を受けて即位した。
なお、曹氏一族は、西晋においては比較的優遇された。 曹奐は陳留王に封じられて、南朝の斉の時代まで、陳留王としての曹氏の記録が残る。 また、司馬炎は早々に、曹氏の任官禁止を解いた。 これは中華の歴史から俯瞰すれば亡国の一族としては破格の待遇であった。
三国時代の終焉
- 280
- 呉を滅ぼして天下を統一する
西晋は前年から大軍を江南へ派遣して、この年、三国の最後である呉を滅ぼした。 この大軍は、司馬伷、王戎、胡奮、賈充、杜預、王濬、王渾らに率いられて、六方面から攻め入る万全を期したものであった。
この頃、呉では第四代皇帝・孫皓の暴政により国力が大きく低下しており、令名の高い陸抗も既に亡く、人材に乏しかったため、呉軍は各地で西晋軍に撃破された。 また、本来、呉の防衛の要として機能すべき長江の水利も、蜀を併呑した西晋にその上流を抑えられては活かすことが出来なかった。 建業に迫る西晋軍を前にして、呉軍の将兵たちは逃亡するありさまで、為す術のない孫皓は降伏した。
これをもって、後漢末期の黄巾の乱に端を発する群雄割拠の時代、三国時代は終わり、およそ百年ぶりに中華圏は西晋によって統一された。
八王の乱
本来は、司馬炎没後の朝廷の権力闘争を八王の乱として十把一絡げにしてしまうのは、あまりにも雑である。 だが、言い換えれば、それだけ短期間に政局が混迷を極めたために、ひとつの出来事として捉えられている側面がある。 八王の乱をもう少し細分化するとすれば、楊氏一族の専横、賈氏一族の専横、司馬倫による簒奪がある。
- 290
- 司馬炎が没する
この頃、朝廷内で実権を握ったのが、外戚として権勢を強めた楊駿ら楊氏一族だった。 司馬炎は病床において後事を司馬亮と楊駿に任せるよう遺詔を残したが、司馬炎の皇后・楊芷は詔を書き換えて司馬亮の名を消した。楊駿は実績に拠ってではなく、外戚という立場に拠って昇進したため、失政の度に人望を失った。楊駿の弟・楊珧、楊済は度々、兄を諫めたが、楊駿は聞く耳を持たなかったために、楊駿による朝廷の専断は改まらなかった。
- 291
- 楊氏一族が粛清される
楊駿の専横を殊のほか苦々しく見ていたのが、第二代皇帝・恵帝・司馬衷の皇后・賈南風だった。 皇太后・楊芷と皇后・賈南風の対立は、後漢王朝でも頻発した外戚の禍を思わせる。 賈南風は、都督荊州諸軍事・楚王・司馬瑋の協力を得ると、宦官を遣わして謀略を起こし、楊駿を謀叛の罪で免職する勅令を皇帝・司馬衷から引き出した。楊駿ら一党はことごとく処刑され、皇太后・楊芷ですら庶人に落とされた上で殺された。
- 291
- 司馬亮、司馬瑋が処刑される
楊駿ら一党が去った後、朝廷を主管したのは汝南王・司馬亮と太保・衛瓘だった。 しかし、賈南風の不満は収まらなかった。 司馬亮と衛瓘はいずれも優れた人物であり、楊氏一族を追い出してもなお賈南風の権限は抑制されていたからである。 賈南風は皇帝・司馬衷に対して、司馬亮、衛瓘の謀叛を誣告し、司馬衷の勅令をもってまたしても司馬瑋を動かした。 さらに、賈南風は司馬瑋に司馬亮、衛瓘を処刑させながら、太子少傅・張華と共謀して司馬瑋を司馬亮、衛瓘殺害の首謀者として弾劾した。 司馬亮、衛瓘討伐の詔勅を持つ司馬瑋の冤罪は明らかではあったが、ここに至って異を唱えることの出来る廷臣はいなかった。
- 300
- 賈氏一族が粛清される
張華は自らの栄達のために賈南風に協力したであろうことは否めない。 しかし、張華もまた西晋を代表する実力者であったことに間違いはなく、賈南風と利害を一致させた協力関係は、賈南風の専横の時期にあってなお十年弱の政治的安定をもたらした。 とは言え、その安定も徐々に顕著になる賈南風の逸脱の中では風前の灯火であった。 張華は自著『女史箴』で暗に賈南風の淫蕩を諫めたが顧みられることは無く、賈模は一族に禍が及ぶことを恐れて賈南風の廃后を協議したが、強行的な手段が憚られて実現しなかった。
この年、賈南風は皇太子・司馬遹を廃太子した。 司馬遹は賈南風の実子ではなく、往年から賈南風らと対立していた。 一方で、司馬遹の臣・司馬雅、許超は賈南風を廃后しようとして、趙王・司馬倫の協力を仰いだ。 当初、賈南風は司馬遹を廃太子だけでなく処刑するつもりだったが、司馬遹への賜死の勅令は張華らが頑なに反対したため実現しなかった。 ところが、賈南風の権威を取り込もうとした司馬倫は、表向きは司馬雅、許超らの賈南風の廃后に同意しつつ、裏では廃后の計画を賈南風に漏らし、賈南風に司馬遹一党を除かせたうえで、司馬遹殺害の罪で賈南風すらも除こうとする恐るべき計画を目論んだ。 司馬倫は、賈南風が司馬遹を暗殺して葬儀を終えるのを待つと、司馬肜、司馬冏と共に賈氏一族の討伐を決行した。
この悪辣な計画を企図したのは司馬倫の臣・孫秀だった。 張華は、司馬倫や孫秀が必ず簒奪を成すであろうことを予測し、司馬倫から招聘を受けても拒絶した。 張華、裴頠らの賈氏政権の中枢もまた賈氏一族とともに処刑された。 張華による政治は、西晋最後の安定と言えるもので、以後、西晋は皇族同士が血で血を洗って、混迷を深めていくことになる。
- 301
- 司馬倫が死ぬ
司馬倫は朝廷内の権力を掌握すると、司馬衷を上皇に押しやって、帝位を簒奪した。 ところが、司馬倫の政治は張華とは違って優れたところがなかったため、瞬く間に人望を失った。 朝野の趨勢を見た斉王・司馬冏、成都王・司馬穎、河間王・司馬顒は、司馬倫の打倒を旗印に挙兵した。 特に司馬冏は司馬倫に協力しながら左遷されたため、司馬倫への不満を強く持っていた。 これを三王起義という。
司馬倫は初戦こそ反乱に対して優勢だったが、長引くにつれて朝廷内が浮足立った。 司馬倫を退位させる風潮が現れると、左衛将軍・王與らは軍を宮中に入れて孫秀を殺し、司馬倫に退位を迫った。 司馬倫は毒酒をもって自害させられた。 司馬倫はよほど諸人の怒りを買ったと見え、実兄・司馬肜にすら賜死を上表され、趙庶人という蔑称で扱われ、帝位は僭称として歴代皇帝には数えられない。
- 302
- 司馬冏が処刑される
司馬冏もまた失政により急速に支持を失った。 この低迷に目を付けたのが司馬顒だった。 司馬顒は自ら動くよりも、長沙王・司馬乂に司馬冏を攻撃させようとした。 司馬乂の勢力は弱く、司馬顒の目論見では司馬乂は捨て駒に過ぎなかった。 ところが、思いのほか司馬乂には旗鼓の才があり、寡兵で洛陽を攻撃すること三日、宮中になだれ込んで恵帝の身柄を保護すると司馬冏を処刑した。
- 304
- 司馬乂が処刑される
当初、司馬顒にとって捨て駒に過ぎない司馬乂が政権を握ったことは予想外だった。 さらに彼にとって面白くないのは、司馬乂が朝廷を壟断することなく、決裁を司馬穎に委ねて国政の安定を企図したことだった。 一方で、司馬穎は大権に堕落して司馬乂を疎ましく思うようになった。 ここに司馬穎と司馬顒の利害が司馬乂を除くことにおいて一致する。
303年、司馬穎、司馬顒は司馬乂を弾劾して牽制するが、司馬乂は司馬穎、司馬顒を逆賊として、恵帝・司馬衷から都督中外諸軍事を拝命した。 司馬乂の軍事力は司馬穎、司馬顒に比べて圧倒的に不利だったが、司馬乂は寡兵でも強兵であり戦えば連勝した。 しかし、地盤の弱さゆえに局所的には勝利を収めても、大勢を覆せない状況が司馬乂にはあった。 この現状に対して司馬乂陣営の東海王・司馬越は限界を感じた。 司馬越は司馬乂を捕縛すると、洛陽を攻囲する司馬顒方の張方に投降した。 このとき、司馬越は張方の陣営が思いのほか疲弊していることを知ると、情勢が変わることを恐れて張方に速やかに司馬乂を処刑させてしまった。
- 306
- 司馬穎、司馬顒が処刑される
司馬穎は皇太弟、丞相と位を昇り詰めたが、それに反して人望は失墜した。 これに最も失望したのは司馬越だった。 司馬越は陳眕らと謀って挙兵し、封土の東海へ帰還した。 都督幽州諸軍事・王浚が司馬越に与して司馬穎の本拠である鄴を攻撃すると、いよいよ司馬穎、司馬顒らの不利は明白になった。 司馬穎が鄴から洛陽に逃げると、張方は恵帝・司馬衷を保護して司馬顒の本拠・長安への遷都を強行し、司馬穎もこれに従った。 司馬顒は司馬穎の丞相を解任し、皇太弟を廃して謹慎させ、新たな皇太子として司馬熾を立太子した。
劣勢を見て司馬穎は逃亡するも頓丘郡太守・馮嵩によって捕えられ、鄴へ連行されて范陽王・司馬虓の下で監禁され処刑された。 一方、司馬顒は張方を誅殺して司馬越と和議を図るも、司馬越はこれを無視したため、司馬顒はほとんど単身で太白山へ逃走した。 司馬越は司馬顒が無力化したことを知って司馬顒を洛陽へ招聘したが、これを認めない司馬模によって司馬顒は殺された。
これをもって、八王の乱は終結する。 八王の最後の一人、司馬越は政権を掌握した。 307年に司馬衷の病没をもって懐帝・司馬熾が即位すると、やはり司馬越は権力闘争を起こした。 放っておけば八王の乱は未だ続いたであろう。 しかし、以後、大きな政変が起きなかったのは、この辺りで西晋は闘争をするだけの余剰の国力を使い果たしたからだと言えるだろう。 この衰退を虎視眈々と冷静に見ていたのは諸王に軍事力として動員された異民族たちであった。 この後、西晋は永嘉の乱へと移行していく。 司馬越もまた、永嘉の乱に応対し異民族との抗争の中で敗死する(311年)。
永嘉の乱
八王の乱が皇族同士の権力闘争という定義であるならば、当時の西晋には同時に八王の乱による政治的停滞がもたらした被支配者側の闘争があった。 連年の飢饉にあっても統治者による救済が行われなければ、当然、民衆は税だけを徴収する施政者に対して反乱を起こす。 永嘉の乱は、このような被支配者側による階級闘争を主体としている。 296年に起きた氐族の斉万年による反乱は、まさに永嘉の乱を先駆けたものであった。 その性質上、永嘉の乱は大小無数の反乱を含んでしかるべきだが、歴史に刻んだ契機の重大さから、前趙および成漢の勃興(304年)と西晋の滅亡(311年)は特筆されるものである。
- 311
- 司馬越が病没し、洛陽が陥落する
前趙も成漢も当初は西晋にとって無数に発生した反乱のひとつに過ぎなかった。 しかし、八王の乱という暗闘を疑心暗鬼でくぐり抜けてきた司馬越にとっては仕方ないかもしれないが、司馬越の意思には何よりもまず保身が先立っており、司馬熾の側近や朝廷、地方行政とは不和ばかりが生じ、司馬越を始めとする誰もが孤立して、反乱鎮圧という能動的な成果はおろか、反乱への抵抗すらままにならなくなっていた。
中原に進出してきた石勒に応じるべく司馬越は洛陽を出陣するが、檄を飛ばしても応じる者はなく、出陣に反対した司馬熾には逆に討伐令を出されるほど、すでに司馬越は孤立していた。 だが、司馬越に代わってこの混乱を収拾しようとする者もいなかった。 司馬越はこの陣中において病没した。 司馬越の軍は統制を得ずに、なし崩し的に封地の東海へ移動したが、これを好機とした石勒によって滅ぼされた。
司馬越の死後、僅か三ヶ月後には劉聡によって洛陽は陥落し、司馬熾は平陽へ連行された。 これをもって西晋は滅亡と捉えられる。 当初、司馬熾は厚遇されたが、西晋の残党政権が活発に動くと、劉聡から疎まれるようになり処刑された。
- 316
- 長安が陥落する
313年に司馬熾が殺されると、愍帝・司馬鄴が即位した。 司馬鄴は洛陽陥落時に前趙の軍勢を避けて許昌へ脱出し、与党を集めて長安へ遷都した。 司馬鄴を輔翼する勢力として司馬睿、司馬保、張軌、王浚、劉琨などが健在だったが、各勢力は各々の勢力を維持することに手一杯であり、もはや統一王朝としての施政は伴わなかった。 抵抗空しく、前趙が長安を包囲するにあたって司馬鄴は降伏した。 司馬鄴の平陽へ連行され、見世物のような扱いを受けたあと処刑されたとされる。
西晋の残党諸勢力は前後して前趙に滅ぼされてゆくが、涼州刺史・張軌と、江南に勢力を固めた琅邪王・司馬睿は、西晋の滅亡後、それぞれ前涼と東晋として存続した。
西晋帝室系図
- 赤は西晋の皇帝
- 青は八王の乱において八王に数えられる王
- 緑は東晋の初代皇帝
- 司馬越の諡号は東晋の元帝・司馬睿による
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司馬防
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司馬懿
【追】宣帝
-
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司馬師
【追】景帝
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司馬攸
斉献王
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司馬冏
斉武閔王
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司馬昭
【追】文帝
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司馬炎
武帝
1
-
恵帝衷
孝恵帝
2
-
司馬遹
愍懐太子
-
-
-
司馬瑋
楚隠王
-
-
司馬乂
長沙厲王
-
-
司馬穎
成都王
-
-
司馬晏
呉敬王
-
-
司馬鄴
孝愍帝
4
-
-
司馬熾
孝懐帝
3
-
-
-
司馬亮
汝南文成王
-
-
司馬伷
琅邪武王
-
-
司馬覲
琅邪恭王
-
-
司馬睿
【東晋】元帝
1
-
-
-
司馬肜
梁孝王
-
-
司馬倫
趙王
-
-
-
司馬孚
安平献王
-
-
司馬瓌
太原烈王
-
-
司馬顒
河間王
-
-
-
-
司馬馗
-
-
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司馬泰
高密文献王
-
-
司馬越
東海孝献王
-
-
-
-
- 左側が年長者
- 数字は皇位の継承順
- 継承に関係のない筋は省略
歴代君主
司馬炎
236年-290年。字は安世。西晋の初代皇帝。武帝。司馬昭の子。司馬昭の死後、魏帝・曹奐に禅譲を迫って皇帝に即位し、西晋を建てた。呉を滅ぼし天下を統一した。名君としての前半期と、堕落した後半期で評価が分かれる。多くの宗族を王に封じたことが、後の八王の乱を成した。病没。
司馬衷
259年-307年。字は正度。西晋の第2代皇帝。恵帝。司馬炎の第2子。兄・司馬軌が夭折したため立太子された。司馬炎の死後、即位するが、皇帝として暗愚と評価される。皇后の賈南風を筆頭とする外戚の台頭や、八王の乱を抑えることができなかった。病没。司馬越による毒殺とも。
司馬熾
284年-313年。字は豊度。西晋の第3代皇帝。懐帝。司馬炎の第25子。司馬衷の死後、即位した。全国の反乱に応対するが、西晋の衰退を止めることは出来なかった。司馬越が洛陽を空にして出鎮したまま病死すると、前趙の攻撃により洛陽は陥落した。平陽に拉致されたのち処刑された。
司馬鄴
300年-318年。字は彦旗。西晋の第4代皇帝。愍帝。司馬炎の孫。司馬晏の第3子。永嘉の乱で洛陽が陥落すると、長安へ脱出し、荀藩らに擁立された。涼州刺史・張寔の支援を受けるも、西晋の体制は瓦解しており、前趙の執拗な攻撃により長安は陥落した。平陽に拉致されたのち処刑された。
主な宗族
司馬攸
246年-283年。字は大猷。斉王。司馬昭の第3子。子がいない司馬師の猶子となった。聡明でありながら人徳を有し、宗族の中で一際輿望を集めた。後継問題を背景に、司馬炎から疎まれて、封地への帰国を命じられた。まもなく病没。司馬攸帰藩事件として、八王の乱の初端と解される。
司馬瑋
271年-291年。字は彦度。楚王。司馬炎の第5子。八王の一人。賈南風による楊駿排斥に協力した。その後、補政の任に当たった司馬亮や衛瓘と対立し、賈南風に唆されて司馬亮、衛瓘を粛清した。賈南風によって司馬亮、衛瓘殺害の罪を押し付けられ処刑された。横暴の評価が残る。
司馬亮
?-291年。字は子翼。汝南王。司馬懿の第3子。八王の一人。宗族の長老的存在。賈南風と結託した司馬瑋が専横を揮った楊駿を粛清すると、衛瓘と共に執政にあたったが、賈南風や司馬瑋と対立し殺害された。第2子・司馬矩の子孫は、東晋の汝南王として存続した。
司馬遹
278年-300年。字は煕祖。司馬衷の子。聡明さを祖父・司馬炎に溺愛されたが、成長と共に学問から遠ざかり、次第に評判を失った。実子のいない賈南風から疎まれ、賈謐と対立した。賈南風によって謀叛の罪を着せられて、廃太子ののち、庶人に落とされた。まもなく賈南風によって暗殺された。
司馬倫
?-301年。字は子彝。趙王。司馬懿の第9子。八王の一人。賈南風が司馬遹を廃太子すると、賈南風を教唆して司馬遹を殺害させ、司馬遹殺害の罪で賈氏一族を粛清した。司馬衷を上皇として自ら皇帝を称した。朝廷は混乱し司馬冏らの三王起義を誘発させた。王輿らにより捕縛され、のち毒殺された。
司馬冏
?-302年。字は景治。斉王。司馬昭の孫。司馬攸の子。八王の一人。司馬倫に協力して賈氏一族を滅ぼすが、後に司馬倫から軽んじられた。司馬倫が暴政を行うと、司馬穎、司馬顒らと決起して司馬倫を退位させ、司馬衷を復位させた。司馬顒が挙兵すると洛陽で呼応した司馬乂によって捕縛され、処刑された。
司馬乂
277年-304年。字は士度。長沙王。司馬炎の第6子。八王の一人。兄・司馬瑋が罪に問われたとき連座したが、三王起義に加わり中央に戻った。司馬冏が悪政を行うと、司馬顒に協力して司馬冏を捕縛した。まもなく司馬顒、司馬穎と対立し戦況は優位に進んだが、降伏を望む司馬越に裏切られ殺害された。
司馬顒
?-306年。字は文載。河間王。司馬孚の孫。司馬瓌の子。八王の一人。三王起義の一人として司馬倫を討伐した。司馬乂殺害後は、司馬穎を皇太弟に推して、長安に駐屯し続けた。司馬穎に引きずられるように司馬越と対立した。長安陥落後は司馬越から洛陽に召喚されるが、道中、司馬模に暗殺された。
司馬穎
279年-306年。字は章度。成都王。司馬炎の第16子。八王の一人。三王起義の一人として司馬倫を討伐した。後に司馬冏、司馬乂、司馬越と立て続けに対立した。司馬越に敗れて司馬虓に幽閉されていたが、復権を恐れられて処刑された。配下の劉淵は救援を名目に匈奴を独立せしめ、後の前趙を構成した。
司馬越
?-311年。字は元超。東海王。司馬馗の孫。司馬泰の子。八王の一人。司馬乂を裏切って殺害した。司馬穎、司馬顒と対立して一時劣勢となるが、王浚らの援軍を得て司馬穎、司馬顒の排斥に成功した。司馬衷の死後、司馬鄴を擁したが、拡大する前趙を抑えられないまま、陣没した。
司馬保
294年-320年。字は景度。司馬模の子。司馬越の甥。洛陽の陥落以後、秦州一帯を領有した。司馬睿と並んで司馬鄴を補佐する立場にあったが、後に司馬鄴を軽んじて、積極的に援護せず長安陥落を傍観した。皇帝を自称したが、前趙に対して劣勢となると、配下の張春に殺害された。病没とも。
主な人物
羊祜
221年-278年。字は叔子。羊儒の曾孫、羊続の孫、羊衜の子。諸事に慎ましく先見の明を持ち、才幹に身を滅ぼす事が無かった。都督荊州諸軍事として積極的な呉征伐を論じる一方で、呉将の陸抗と交誼を重ねて羊陸之交の故事成語を残した。病没。後任に杜預を推挙した。
賈充
217年-282年。字は公閭。賈逵の子。賈南風の父。曹爽の失脚後、司馬氏に取り立てられた。曹髦殺害を指揮して罪に問われなかったように、司馬氏の腹心として絶大な信任を得た。派閥を好み、人事評価は好悪が先んじた。西晋建国の功臣として筆頭に挙がる。病没。
杜預
222年-284年。字は元凱。杜畿の孫、杜恕の子。前漢の御史大夫・杜周の末裔。蜀、呉の討伐に深く関わった。政策に無駄がなく杜武庫の異名をとった。破竹の勢いの語源を残した。春秋左氏伝を研究した学者でもある。武廟六十四将の一人。詩聖・杜甫は末裔に当たる。
王濬
206年-285年。字は士治。司隸弘農郡湖県の人。武廟六十四将の一人。羊祜の厚遇を受けて巴郡太守、広漢太守を経て益州刺史を務めた。呉征伐では水軍編制を急進し、長江を降って建業を攻めた。征呉の功を巡って王渾と対立したが、鄧艾の轍を恐れて身を引いた。
楊駿
?-291年。字は文長。一族の楊艶、楊芷が司馬炎の皇后となった。外戚として権力を集め、重職を委ねられるようになったが、能力に不足し人望は高まらなかった。専横を憎む賈南風一派の政変によって失脚し、一族もろとも処刑された。暗愚だったが、敵対者を無暗に殺害しなかった。
王渾
223年-297年。字は玄沖。并州太原郡晋陽県の人。王昶の子。京陵侯を継承したが曹爽の失脚で免官となった。懐県県令として復帰以後は累進し豫州刺史、豫州諸軍事となった。呉征伐では一軍を率いて南進し、功は王濬と双璧を成した。晩年は兵権を返上し顕職を歴任しては名声を落とした。
賈南風
257年-300年。司馬衷の皇后。賈充の3女。嫉妬深く権謀を好んだ。司馬炎からは5つの欠点を指摘されたが、賈充派の強い後押しがあって太子妃となった。楊駿の殺害後は八王の乱の中心人物となり、司馬亮、衛瓘を初めとする宗族や重臣を粛清した。皇太子・司馬遹殺害の罪で、司馬倫に処刑された。
孫秀
?-301年。字は俊忠。琅邪郡の人。初め潘岳に仕えたが、狡猾、貪淫と評され度々処罰を受けた。司馬倫が琅邪王の頃に仕え、文章を賞されて累進した。多くの謀事に関り、司馬遹の殺害、賈氏の誅殺など数多の凶行を主導した。朝廷を専断して諸王の挙兵を招き、内部から呼応した趙泉に斬られた。
趙廞
?-301年。字は叔和。祖先は張魯に従ったが、張魯が曹操に降伏してから趙に移った。県令、郡太守を歴任して司馬倫からの評価を得、益州刺史、大長秋まで昇った。賈氏が誅殺されると婚姻関係にあった自らの立場を危ぶみ、李特ら流民を私兵として益州の占有を図った。配下の鎮撫に失敗し李特の攻撃を受け横死した。
陸機
261年-303年。字は士衡。呉郡呉県の人。陸抗の子。始め呉の牙門将となったが、滅亡と共に隠棲し10年に渡って在野で学問にはげんだ。招聘されて張華、賈謐と親交を結んだ。司馬倫の政変に協力したために罪を得たが司馬穎に救われた。司馬穎政権に参与して讒言を受けた司馬穎に処刑された。
王戎
234年-305年。字は濬沖。王雄の孫、王渾の子。琅邪王氏。魏、晋の官職を歴任した。呉討伐の一軍を率いるなど大きな功績を残す一方で、職権乱用、軍法違反、贈賄などの容疑を受けた。処世に巧みで、積極的に政治力を発揮しないことで寿命を全うした。竹林の七賢の一人に数えられる。
張方
?-306年。寒門の出身だったが、関中を統治した司馬顒に仕官して累進した。以降、司馬顒、司馬穎の一派として、司馬倫、司馬乂、司馬越と戦って軍の中核を成した。後に、司馬顒の敗色が濃厚になると、謀叛の罪を着せられて司馬顒に殺害された。
羅尚
?-310年。字は敬之。羅式の子。羅憲の甥。幼くして父を亡くし叔父の羅憲に養育された。荊州刺史・王戎の参軍を務め、呉征討では王戎の前衛として進軍した。梁州刺史ついで益州刺史を拝命した。難民を統率した李特と対立し、一時は李特を敗死させて優勢となったが、成都を保持し得ず巴郡を拠点とした。病没。
劉喬
249年-311年。字は仲彦。南陽郡安衆県の人。劉阜の子。前漢の長沙王・劉発の末裔。王戎の属官となり呉征伐の功で滎陽県令となった。楊駿の誅殺や賈氏の排斥に協力し昇進を重ねた。豫州刺史として張昌の乱を鎮め、承制する司馬越に反発した。司馬越が実権を握ると許されたが、司馬越の死後、石勒の攻撃により捕縛、処刑された。
華軼
?-311年。字は彦夏。平原郡高唐県の人。華澹の子。魏の太尉・華歆の曾孫。才気と博愛に富み、博士、散騎常侍を務めたほか、司馬越の属官も務めた。永嘉年間には江州刺史となった。勤皇の意志が強く、江南に赴任した司馬睿の人事に従わなかったため、王敦の攻撃を受け、衛展、周広に殺された。
苟晞
?-311年。字は道将。貧しい家の生まれだったが、東海王・司馬越に招聘されて、陽平郡太守まで昇進した。八王の乱では、主に司馬越に従い、公師藩、劉喬、汲桑らを討伐し、威光を高めた。青州刺史として曹嶷らと争った。後に司馬越と対立し、司馬越の死後、石勒によって滅ぼされた。有能であったが過酷でもあった。
賈疋
?-312年。字は彦度。魏の太尉・賈詡の曾孫。安定郡太守となり、司馬越に与して司馬顒と争った。永嘉の乱で洛陽とともに長安が陥落すると、前趙への帰順を示したが、後に長安を包囲して劉曜を敗退させた。司馬鄴を迎えて征西大将軍まで昇るが、彭天護との戦中、山間から転落して死亡した。
荀藩
245年-313年。字は泰堅。後漢の司空・荀爽の玄孫。荀勗の子。司馬顒が長安に居ながら二元政治を行ったとき、洛陽にいて政治を取り仕切った。永嘉の乱では洛陽から逃亡して臨時政府を立て、司馬睿を盟主とした。司馬鄴を迎えたが、長安遷都には従わなかった。司空まで昇る。病没。
王浚
252年-314年。字は彭祖。王沈の子。都督幽州諸軍事として幽州の軍事を総括した。辺境の地の利を活かして三王起義ではどちらにも与せず、司馬顒、司馬穎と敵対した。鮮卑と修好する一方で、劉琨と内訌した。西晋が著しく弱体化すると帝位を狙ったが石勒に滅ぼされた。
索綝
?-316年。索靖の第5子。兄の仇討で37人を殺害した。麹允と共に西晋の復興に力を尽くしたが、前趙の勢いを止めることはできなかった。長安が包囲されると、保身を計って劉曜へ偽計を用いたが、劉曜に看破された。長安陥落とともに平陽に連行されて刑死した。
麹允
?-316年。金城郡の大豪族の出身。長安陥落時に逃走し、賈疋を説得して長安を奪還した。閻鼎を弾劾して政治を主導した。前趙と一進一退を繰り返すも、人心を得られず、長安は陥落した。平陽に連行されたのち自害したが、同時にその忠義を劉聡から評価された。
劉琨
271年-318年。字は越石。劉蕃の子。漢の中山靖王・劉勝の末裔。司馬倫に従ったが司馬冏に許された。司馬騰が劉淵に敗れて晋陽から鄴へ移転すると、司馬越によって并州刺史に任じられ鮮卑と修好して前趙と争った。西晋滅亡後も并州を維持したが、段匹磾に殺害された。
羊献容
?-322年。羊玄之の子。泰山羊氏の出自。母が孫旂の娘であったことから、司馬倫が賈南風を廃位したとき孫秀によって恵帝皇后に擁立された。その後、八王の乱で主導者が入れ替わるたびに廃位と復位を繰り返した。洛陽陥落時には平陽へ連行され劉曜に保護され、後に皇后となった。皇后となること七度に及ぶ。