慧遠 ( えおん )

publish: 2021-08-19, update: 2026-04-19

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334年-416年。姓は賈。雁門郡楼煩県の人。釈道安を師として出家した。前秦との戦乱を尋陽郡柴桑県に避け、廬山に入って以後30年間、山を下りなかった。白蓮社なる念仏結社を創り中国浄土宗の祖となった。仏法は王法に従属しないと説き、桓玄と意見を対立させた。

北周から隋にかけての同名人物と混同に注意。

慧遠の著書に以下のものがある。

  • 沙門不敬王者論
  • 法性論
  • 釈三報論
  • 大智度論抄
  • 大乗大義章

30年余に渡って廬山に籠ったことは、「虎渓三笑」の故事成語となった。慧遠は廬山にある虎渓と呼ばれる谷をいまだ渡ったことがなく、この谷は渡らないと自ら誓っていたが、あるとき陸修静と陶潜の訪問を受けて彼らの帰りを見送ると、慧遠は道中の話の面白さに夢中になってしまい思わず虎渓を越えてしまった、という逸話による。曾我蕭白によって墨画となっているほか、物事に熱中しすぎて他の事を忘れてしまう例えとして、一般的な四字熟語として使われる。

関連

賀抜勝

?-544年。字は破胡。賀抜度抜の子。初め爾朱栄に従って転戦するが、爾朱氏の内訌が起こると高歓に降った。まもなく高歓と敵対し荊州刺史となるが、北魏の東西分裂に際して東魏側の侯景に攻撃されて梁へ亡命した。その後西魏へ帰還して宇文泰に仕え、北周建国の功臣となった。

孫程

?-132年。字は稚卿。涿郡北新城県の人。安帝の治世に宦官として中黄門となった。劉祜、劉懿が相次いで没すると、廃太子されていた劉保の復権に動き、閻顕が諸王子を召喚したのを機に、王康らと共に江京、劉安、陳達を斬って政変を成した。浮陽侯となり養子への相続が認められた。病没。

庾信

513年-581年。字は子山。庾肩吾の子。徐摛、徐陵親子と共に詩文に長けて、その詩は徐庾体と称された。侯景の乱が起こると江陵へ逃げるが、西魏の攻撃で江陵が陥落すると、多くの官民と共に長安へ拉致された。長安に抑留されつつも文人として活躍し、江南を哀惜する名作を残した。

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