慧遠
publish: 2021-08-19, update: 2026-09-11
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334年-416年。姓は賈。雁門郡楼煩県の人。釈道安を師として出家した。前秦との戦乱を尋陽郡柴桑県に避け、廬山に入って以後30年間、山を下りなかった。白蓮社なる念仏結社を創り浄土教の祖となった。仏法は王法に従属しないと説き、桓玄と意見を対立させた。
北周から隋にかけての同名人物と混同に注意。
慧遠の著書に以下のものがある。
- 沙門不敬王者論
- 法性論
- 釈三報論
- 大智度論抄
- 大乗大義章
30年余に渡って廬山に籠ったことは、「虎渓三笑」の故事成語となった。慧遠は廬山にある虎渓と呼ばれる谷をいまだ渡ったことがなく、この谷は渡らないと自ら誓っていたが、あるとき陸修静と陶潜の訪問を受けて彼らの帰りを見送ると、慧遠は道中の話の面白さに夢中になってしまい思わず虎渓を越えてしまった、という逸話による。曾我蕭白によって墨画となっているほか、物事に熱中しすぎて他の事を忘れてしまう例えとして、一般的な四字熟語として使われる。
関連
王曇首
394年-430年。字は子陵。琅邪郡臨沂県の人。王珣の子。劉義隆に仕えて属官として昇進し、劉義隆の即位に伴って中央に入り、侍中、驍騎将軍を務めた。王華らと共に劉義隆政権の確立に務め、その功は多大であった。兄・王弘が劉義康から妬まれたとき、兵を分配することを勧めた。
祭遵
?-33年。字は弟孫。潁川郡潁陽県の人。更始政権下で県の吏だったが、容姿と態度を劉秀に気に入られ河北攻略に従った。性は温厚でありながら苛烈であった。儒者であり清廉潔白を信条とし、罪を犯した者は劉秀の一族であっても格殺した。怒った劉秀に逮捕されたが、許されて厳正さを称えられた。征虜将軍、潁陽侯。
穆提婆
?-577年。漢陽郡の人。元の姓を駱という。駱超の子。父・駱超が謀反により処刑されると、母・陸令萱が後宮に入ったため、高緯に近侍した。後宮内に隠然たる実力を示し、皇后や外戚に対する皇帝の意向を左右した。北斉が滅ぶと北周に降ったが、のちに謀反を告発されて処刑された。