李忠
publish: 2021-10-04, update: 2026-04-19
?-43年。字は仲都。東萊郡黄県の人。もと高密国の郎。王莽政権では信都郡の尉、劉玄政権では信都郡の都尉を拝命した。信都郡太守の任光に従い劉秀を迎えた。龐萌、董憲の討伐に加わり、後に江南に移って広く開墾した。略奪を行わない厳正さと、激しい忠義を持った。豫章太守、中水侯。
関連
申鍾
生没年不詳。魏郡魏県の人。後趙に仕えて侍中、司徒を歴任した。石虎の横暴を諫めた争臣としての逸話が残る。冉閔が魏を建国すると、これに従い太尉となった。前燕によって冉閔が滅亡すると、捕縛されて薊に送られるが、許されて慕容儁に登用された。その後の事跡は不明。
高殷
545年-561年。字は正道。北斉の第2代皇帝。廃帝。高洋の第1子。北斉建国と共に立太子されるが、父の高洋に疎まれた。父高洋の死後即位する。鮮卑系武官と漢人系文官の対立を経て高演へ権力が集中した。太皇太后の婁昭君の勅令により廃され、後に高演に殺害された。在位1年。
劉宏
156年-189年。霊帝。後漢の第12代皇帝。解瀆亭侯・劉萇の子。河間王・劉開の曾孫。劉志に男子が無く、同じ河間王の筋から皇太后・竇妙、竇武、陳蕃らに擁立された。熹平石経を作成するなど学問を奨励する一方で、売官売爵といった短絡的な財政を行い、宦官の専横も止まらなかった。