劉表 ( りゅうひょう )

publish: 2021-08-06, update: 2021-10-25

王朝

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142年-208年。字は景升。山陽郡高平県の人。前漢の魯恭王劉余の末裔。太学で儒学に精通し八及と称された。張倹の逃亡を幇助して自らも追われたが、党錮の禁が解かれると復職して荊州刺史を務めた。荊州を発展させ群雄の一人として割拠したが、曹操の南進の直前に病没した。

荊州に長らく居座っている印象があるが、劉表が荊州を掌握したのは実のところ遅い。その時期は、袁術が南陽郡に本拠を固める時期とほぼ変わらない。もともと荊州は荊州刺史である王叡が監督する地であった。王叡は反董卓連合に加わるつもりだったが、その前に以前より不仲であった武陵太守の曹寅の殺害を企てた。これを知った曹寅は王叡の罪を偽造して、長沙太守の孫堅に王叡を攻めさせた。これにより王叡は自害した(189年)。また、反董卓連合として兵をあつめ北上した孫堅は非協力的であった南陽太守の張咨を殺害した(190年)。その後任として南陽郡を実効支配したのが洛陽から逃れた袁術であった。王叡の後任として董卓によって派遣されたのが劉表となる。劉表は荊州の掌握に成功したため、これを危険視した袁術が劉表を追い出すために孫堅を派遣すると、逆に孫堅が敗死する(襄陽の戦い)。この襄陽の戦いは時期が定かではないが、おおよそ陽人の戦い(191年)から匤亭の戦い(193年)の間である。

関連

徐栄

?-192年。幽州玄菟郡の人。字や出自は明らかでない。董卓に従って中郎将となった。曹操、鮑信、孫堅らと戦って勝利を重ね、董卓の軍事面を大いに支えた。董卓の死後は王允に従い、長安を攻める李傕、郭汜らを迎撃したが、胡軫、楊定らに裏切られ戦死した。

劉保

115年-144年。順帝。後漢の第8代皇帝。劉祜の子。閻氏らによって廃嫡されていたが、孫程が閻氏らを排除すると擁立されて即位した。宦官の封爵、家督相続を認め、宦官の政治参加を促進した。賢臣を集め、外戚・梁氏の献身を得たが、梁冀への権力集中が高まると、その掣肘が成されるまま没した。

袁紹

?-202年。字は本初。汝南郡汝陽県の人。何進の属官となって以後、昇進して西園八校尉など務めた。何進の死後、宦官を排斥し、董卓と対立すると冀州を拠点に群雄として割拠した。河北四州を統べて一大勢力を築くが、官渡の戦いで曹操に敗北して以降は衰退した。勢力回復に奔走するなか病没した。

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