袁紹
publish: 2021-11-25, update: 2026-04-19
?-202年。字は本初。汝南郡汝陽県の人。何進の属官となって以後、昇進して西園八校尉など務めた。何進の死後、宦官を排斥し、董卓と対立すると冀州を拠点に群雄として割拠した。河北四州を統べて一大勢力を築くが、官渡の戦いで曹操に敗北して以降は衰退した。勢力回復に奔走するなか病没した。
生年が不明であるように、その前半生はっきりとしない。 生まれは袁成の子、あるいは袁逢の庶子とされる。 袁成は若くして没しているため、いずれにしても袁逢、袁隗に育てられた。 袁紹と、袁術の正嫡の争いからも、どちらの生まれも妥当性がある。
袁紹の河北統治には遺漏は無かった。 このことは、袁紹の死後、子がそれぞれ領地を継承したことや、曹操が河北を掌握するのに五年を要していることから、袁紹が割拠して数年のうちに十分な基盤を築いていたことが窺える。 この点で、ライバルでもあった袁術との個人的優秀さに関しては比ぶべくもない。
最大のライバルは、むしろ当初は鼻にも掛けなかった曹操であっただろう。 曹操は外交的には袁紹に臣従したため、袁紹は曹操を攻める絶好の機会で攻めず、機会を失い重臣の反対を押し切って攻めた。 これは袁紹の甘さでもあり、優柔不断と評価される所以でもある。 袁紹の優柔不断さは、重臣たちの派閥形成を許する態度にもある。 袁紹自身が、その派閥争いに巻き込まれてしまった感さえある。 その結果が、官渡の戦いである。
官渡の戦いでは、曹操に敗北したものの、決定的な打撃にはならず、曹操はあくまでも袁紹陣営の勢いをくじいたに過ぎない。 結果的に見れば、官渡の戦いは歴史の分水嶺と見ることが出来るが、当時の曹操からすれば、袁紹の南進を何とか耐えきったというのが、官渡の戦いの本当のところであろう。
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封奕
?-365年。字は子専。渤海郡蓨県の人。封悛の子。祖父の封釈は西晋の侍中であり、東夷校尉として遼東一帯を管轄した。幼少より慕容廆と面識を深め、早くから前燕の黎明に携わった。国相を務めて官吏の筆頭となり、前燕の中原進出を支えた。慕容儁が皇帝に即位すると太尉に任じられた。病没。
蕭詧
519年-562年。字は理孫。後梁の初代皇帝。宣帝。蕭統の第3子。侯景の乱で対立した蕭繹に兄蕭誉が殺されると、西魏に降って後楯を受けた。西魏が江陵の蕭繹を攻撃すると同調して蕭繹を殺害した。江陵一帯を拠点に自立し皇帝を称したが、実情は西魏の傀儡政権であった。在位7年。
索綝
?-316年。索靖の第5子。兄の仇討で37人を殺害した。麹允と共に西晋の復興に力を尽くしたが、前趙の勢いを止めることはできなかった。長安が包囲されると、保身を計って劉曜へ偽計を用いたが、劉曜に看破された。長安陥落とともに平陽に連行されて刑死した。