徐栄 ( じょえい )

publish: 2022-01-27, update: 2026-04-19

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?-192年。幽州玄菟郡の人。字や出自は明らかでない。董卓に従って中郎将となった。曹操、鮑信、孫堅らと戦って勝利を重ね、董卓の軍事面を大いに支えた。董卓の死後は王允に従い、長安を攻める李傕、郭汜らを迎撃したが、胡軫、楊定らに裏切られ戦死した。

曹操や孫堅を相手に勝利した結果論でいえば、徐栄もまた名将だと言える。この頃の董卓側の諸将の動きとしては、呂布などよりも活躍している。 一方で、董卓の死後は、その旧臣である李傕や郭汜に同調せず、王允に従っていることに特有の信念を感じさせる。 つまり、徐栄は政治家ではなく、官僚的な軍人であった。 故に、徐栄にとってみれば、董卓や王允という時の実力者に政治的配慮から従ったのではなく、あくまで朝廷の臣であり続けて朝廷の命に従ったのである。

有能でありながら、悪く言えば硬直した官僚的思想で動くこの手の身の振り方は、同時代では皇甫嵩もそうであり、いつの時代も歴史の途中退場者にはありがちなものである。 しかし、本来であれば、中央集権的な中華の王朝においては、こういった人材こそが望まれるものである。 治世の能臣は乱世には生きられず、乱世の姦雄は治世には生きられないのが普通である。 徐栄も一人の治世の能臣であったと言えよう。

なお、後に遼東に一大王国を築く公孫淵の祖父・公孫度を遼東太守に推挙したのも、ほかならぬ徐栄である。

関連

劉荘

28年-75年。明帝。後漢の第2代皇帝。字は子麗。劉秀の子。もとは東海王で正嫡ではなかったが、郭皇后の廃位により劉彊に代わって皇太子となった。外戚である陰氏、馬氏の自制や、積極的な対外政策により、王朝に全盛をもたらした。創業の功臣を賞して雲台二十八将として祭った。

乞伏国仁

?-388年。字は烈祖。西秦の創建者。宣烈王。乞伏司繁の子。隴西鮮卑の出身。前秦から南単于に封じられた。淝水の戦いの前、叔父の乞伏歩頽が反乱を起こすと討伐に当たったが、淝水の戦いで前秦が大敗すると慰留されて状況を静観した。苻堅が姚萇により殺害されると独立した。

蕭賾

440年-493年。字は宣遠。蕭斉の第2代皇帝。武帝。蕭道成の第1子。父蕭道成の死後皇帝に即位した。国力増強に傾注し、検地の実施、戸籍の整理などに行政手腕を発揮した。政治にも明るく貴族に対抗する皇帝権力の強化に務めた。在位中は国内が安定した。在位11年。

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