王羲之
publish: 2021-04-25, update: 2021-10-25
303年-361年。字は逸少。王曠の子。王導、王敦の従兄弟甥。人格と才覚を評価されて度々要職へ任官されたが、その度に辞退し地方官への任官を望んだ。後に会稽郡に移住し悠々自適と精進の中から楷書・行書・草書の各書を確立させた。書の芸術性を見出したとされ書聖と称される。
関連
顧愷之
生没年不詳。字は長康。晋陵郡無錫県の人。顧悦之の子。桓温や殷仲堪の属官を務め、晩年は中央に入って散騎常侍となった。多才であり才絶、画絶、癡絶の三絶を備えると云われ、多くの名画を残して画聖と称される。肖像画を得意とし描線の美を知らしめた。真筆は散逸したが模写が傑作と評価されて残る。
劉牢之
?-402年。字は道堅。劉建の子。前漢の楚元王・劉交の末裔。謝玄に招聘されて北府軍を率いて前秦と戦った。謝玄の死後は北府を引き継いだ王恭の配下となった。軍事を取っては常勝であったが政略は皆無であり、王恭、司馬元顕、桓玄を裏切り、最後は人望を失って憂憤のうちに自害した。
桓温
312年-373年。字は元子。桓彝の子。庾翼の後を継いで西府を統括した。成漢の討伐、中原の回復、大規模な土断に成功して、東晋史上最大級の功を成した。司馬奕を廃して司馬昱を擁立し、簒奪の準備を進めたが、謝安らの反対に遭い禅譲は実現しなかった。病没。