劉牢之
publish: 2021-04-25, update: 2026-04-19
章節
標籤
?-402年。字は道堅。劉建の子。前漢の楚元王・劉交の末裔。謝玄に招聘されて北府軍を率いて前秦と戦った。謝玄の死後は北府を引き継いだ王恭の配下となった。軍事を取っては常勝であったが政略は皆無であり、王恭、司馬元顕、桓玄を裏切り、最後は人望を失って憂憤のうちに自害した。
劉牢之は複雑な人である。才覚を持ちながら一貫する理念や思想をもたず、裏切りを重ねたという点では、三国時代の呂布に重なるものがある。あるいは、自立する能力がありながら、独立する野望を持たなかった前漢の韓信や後漢の皇甫嵩にも通じる。理念が無かったというよりは、個人の理念を東晋という王朝に依存していたとも言える。その視点で見てみれば、劉牢之は時の権力者や主導者に従ったにすぎず、東晋という王朝は裏切っていない。従順で有能な官僚であった。ただ、この手の人は人生を難しくしがちで、天寿を全うできる人は少ないかもしれない。劉牢之もそれに漏れない。この点で、皇甫嵩は後漢の末期の乱世にありながら命を全うし、家系も存続させている点で一線を画す人である。理念を依存する王朝が斜陽に入れば身を処すことができなくなる。ましてや、劉牢之は謝安、謝玄の体制下で前秦を撃破し、東晋の中興をその目で見た人である。東晋は未だ存続すると信じていても不思議ではない。
関連
李歆
?-420年。字は士業。西涼の第2代公。後主。李暠の第2子。父の死後公位を継ぐ。父・李暠の政策を継承し東晋に臣従した。刑賞の乱れや財政難を起こし失政が続いた。北涼への遠征を強行するも、逆に北涼の沮渠蒙遜に大敗し捕らえられて処刑された。
慕容法
生没年不詳。南燕の中軍将軍、兗州刺史。 後に、征南大将軍、都督徐州揚州兗州南兗州諸軍事として南燕の軍事を支えた。 あからさまに慕容超を軽侮した。慕容超の即位後は不和が明確になり、慕容鍾、段宏と共に謀反するが、失敗して北魏へ逃亡した。
景丹
?-26年。字は孫卿。馮翊櫟陽県の人。王莽の頃、上谷郡の吏を務め、劉玄の即位に伴って上谷郡の長史となった。劉秀に従うと偏将軍、奉義侯となり河北平定で大きな功を成した。呉漢に次ぐ軍権を持った。蘇況の討伐を病を押して遂行し、そのまま没した。驃騎大将軍、櫟陽侯。