張奐 ( ちょうかん )

publish: 2021-12-20, update: 2021-12-20

王朝

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章節

retsuden

103年-181年。字は然明。敦煌郡淵泉県の人。張惇の子。太尉の朱寵に師事するなど学問を志したが、梁冀の招聘を受けて以後は辺境諸国へ赴任した。異民族の鎮撫に長けて、西域や北方に名を轟かせて軍歴を重ねた。竇武らを敗死せしめたことを後悔し、度々宦官を弾劾してその都度謹慎となった。

張奐の属官だった頃の董卓との逸話が残る。 張奐は辺境で功を立てることを自らの矜持としており、その志に共感した董卓はあるとき張奐へ贈り物をした。 しかし、張奐は董卓の人となりを好まず、それを受け取らなかったという。 董卓は皇甫嵩からも距離を置かれているように、人の上に立って慕われることはあっても、人の下にあって遇されることの少なかった人物である。

若いころには、当初45万字余りの『牟氏章句』を添削し、9万字に要約したことが梁冀の耳に入り、その文章は東観に保管された。 章句とは経書を解説した書物であり、前漢に流行したものの、多くの学説や思想が盛り込まれたため、冗長、肥大化し後漢以降は廃れた。 張奐はこの肥大化した冗長な文章を整理し、研究したものである。 謹慎するたびに著作に励み、『尚書記難』を著して、著書は24篇におよんだ。 また、多くの弟子を取った。 学問に精通したことは家柄にも現れていて、子の張芝は書家として名を残した。

関連

劉宏

156年-189年。霊帝。後漢の第12代皇帝。解瀆亭侯・劉萇の子。河間王・劉開の曾孫。劉志に男子が無く、同じ河間王の筋から皇太后・竇妙、竇武、陳蕃らに擁立された。熹平石経を作成するなど学問を奨励する一方で、売官売爵といった短絡的な財政を行い、宦官の専横も止まらなかった。

王粲

177年-217年。字は仲宣。山陽郡高平県の人。王謙の子。後漢の三公を輩出した名家に生まれた。幼いころに董卓の遷都に従い長安へ移住したが、長引く戦乱を避けて荊州へ移った。劉表には遇されず、劉表の死後は劉琮と共に曹操に帰属した。博識で記憶力に優れ、侍中まで昇った。

劉肇

79年-106年。和帝。後漢の第4代皇帝。劉炟の子。10歳で即位し義母である皇太后・竇氏の輔弼を受けた。長じて竇氏の強い専横を解こうとして対立し、宦官の鄭衆を頼って竇一族を排除した。後の外戚、宦官の対立構造の初端となった。班超の西域経営により後漢最大の版図を成した。
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