南涼
(section)publish: 2021-11-12, update: 2026-06-29
目次
章節
標籤
概要
| 名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
|---|---|---|---|
| 南涼 | 397 | 414 | 17 |
南涼は鮮卑禿髪部の禿髪烏孤によって建てられた王朝。
主な出来事
背景
鮮卑禿髪部は鮮卑拓跋部である拓跋力微の兄・拓跋匹孤を始祖とする。 もともと鮮卑は北匈奴の消失に代わって勃興し、後漢末期には塞北に広く分布したが、檀石槐の死後、鮮卑の各部族の分裂が進むと、拓跋部は陰山山脈の北方に台頭した。 拓跋部大人・拓跋詰汾の子として生まれた拓跋匹孤は、弟・拓跋力微とおそらくは対立や争いをさけて部族を率いて西方に移住した。
やがて、魏の時代に都督隴右諸軍事・鄧艾が軍事力増強のために辺縁の異民族を魏の領内へ引き入れた。 その中には鮮卑禿髪部も含まれ、特に隴西一帯は漢人と異民族が雑居する特異な土地となった。 利害の一致しない複数の民族が同じ土地で暮らせば、対立は必然であった。 傅玄はこの危険性を説いて秦州北方の統制を強化すべしと上奏したが、270年、鮮卑禿髪部の大人であった禿髪樹機能が他の胡族を糾合して反乱した。 この反乱は足掛け十年におよび、一時は涼州を不通にさせたものの、司馬駿、文鴦、馬隆らの討伐を受けて鎮められた。
以後、禿髪部は勢力を弱めて長らく各王朝に服属した。 前秦が凋落したころ、禿髪思復鞬は前涼を再興せんとする張大豫を支援した。 386年、張大豫は後涼の呂光によって滅ぼされ禿髪思復鞬も失意の中に没するが、子の禿髪烏孤は部族をまとめて呂光に臣従した。
独立と滅亡
- 397
- 禿髪烏孤が西平王を自称して元号を太初とする(南涼の成立)
- 406
- 姑臧へ遷都する
後涼の滅亡によって後秦によって領有されていた姑臧が南涼へ割譲された。 この頃、禿髪傉檀は後秦に服属しており、禿髪傉檀が後秦の涼州刺史に任じられたことによる。
- 411
- 姑臧を失陥する
北涼が姑臧を奪った。
- 414
- 西秦の乞伏熾磐が楽都を攻略する(南涼の滅亡)
系譜
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拓跋匹孤
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禿髪寿闐
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禿髪樹機能
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禿髪務丸
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禿髪推斤
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禿髪思復鞬
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禿髪烏孤
武王
1
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禿髪利鹿孤
康王
2
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禿髪傉檀
景王
3
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- 左側が年長者
- 数字は継承順
- 継承に関係のない筋は省略している場合がある
歴代君主
禿髪烏孤
?-399年。南涼の創建者。武王。禿髪思復鞬の子。鮮卑禿髪部の出身。後涼に従ったが勢力を拡大させ続けた。呂光は禿髪烏孤の勢力を恐れて官位をもって懐柔しようとしたが応じず、王位を自称して独立した。落馬が原因で死去。
禿髪利鹿孤
?-402年。南涼の第2代王。武王。禿髪思復鞬の子。禿髪烏孤の弟。兄の死後王位を継承する。後秦が西秦を滅ぼすと乞伏乾帰の亡命を受け入れた。後秦に対して臣従しつつ後涼と抗争を続けた。病により死去。
禿髪傉檀
365年-415年。南涼の第3代王。景王。禿髪思復鞬の子。禿髪烏孤・禿髪利鹿孤の弟。南涼の都督中外諸軍事。禿髪利鹿孤の病没により王位を継承した。乞伏熾磐が出奔したときその妻子を解放した。北涼を攻めるも攻略を果たせず西秦の攻撃に降伏した。後に毒殺された。