北燕
(section)publish: 2021-11-12, update: 2026-04-22
目次
章節
標籤
概要
| 名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
|---|---|---|---|
| 北燕 | 407 | 436 | 29 |
北燕は高雲が建てた王朝。 ただし、高雲は馮跋によって擁立された傀儡であるため、王朝樹立を主導した馮跋の即位をもって北燕の成立とする場合がある。 高雲は元々は高句麗の王族で、慕容宝の養子となって慕容雲と名乗った時期がある。 その出自から高句麗との関係が良化した。
主な出来事
成立
- 407
- 馮跋が慕容熙を処刑する(後燕の滅亡、北燕の成立)
馮跋は元々、長楽郡信都県を本貫とする漢人である。 祖父・馮和の代に上党へ移住し、父・馮安は西燕で慕容永の将軍となった。 西燕が滅びると馮跋は龍城へ移住し、ほどなくして慕容雲の知遇を得た。 慕容雲と馮跋は奇行の多い慕容熙と軋轢を起こし、官を辞して野に隠れた。 慕容熙が苻訓英の葬儀のために龍城を出ると、馮跋は慕容雲を擁して龍城を占拠した。 慕容熙は庶民に変装して隠れたが、捕らえられて処刑された。
滅亡
高雲は重用していた離班と桃仁に殺された(409年)。 高雲は馮跋の傀儡だった。 彼らは、高雲の臣として境遇に不満をもって主従に何かしらの対立を引き起こしたか、あるいは高雲を除こうとした馮跋によって高雲殺害の首謀者に仕立て上げたのかもしれない。 いずれにしても、馮跋は高雲亡き後の北燕をそのまま受け継いだ。
- 430
- 馮跋が死ぬ
馮跋の治世は二十年余りに及ぶ。 北魏という外圧がありつつも長期にわたって小国を維持した実績から、馮跋とその朝廷は十分に政務に明るかったと評価できる。 だが、慕容熙や高雲からその地位を奪ってきた男の晩年は因果応報というべきか。 馮跋の病が篤くなると、妃の宋氏が実子を後継にしようとたくらんだ。 さらに、実弟・馮弘がその対立を利用せんとし、宋氏一党を殺して実権を掌握した。 馮跋は混乱の渦中で没し、彼の子は馮弘によって皆殺しにされた。
- 436
- 馮弘が高句麗に亡命する(北燕の滅亡)
北魏の太武帝・拓跋燾は431年に夏を滅ぼすと、翌年から北燕の攻略に取り掛かった。 馮弘は宋に臣従して支援を得ようとし燕王に封じられたが、北魏の攻撃は熾烈でその鋭鋒を避けることが出来なかった。 馮弘の高句麗への亡命をもって北燕は滅亡した。
北燕は高句麗にとっては北魏との緩衝地帯であり、馮弘は北魏に対する牽制として有用だった。 しかし、高句麗の馮弘を利用しようとする態度は、馮弘からすれば冷遇されているという不安につながった。 馮弘は宋への亡命を希望したが、宋に亡命されれば北魏との関係が悪化するだけと見た高句麗は、長寿王・高巨連の意向で殺害された。
系譜
-
高雲
恵懿帝
1
-
馮和
-
-
-
馮安
-
-
-
馮跋
文成帝
2
-
馮弘
昭成帝
3
-
-
- 左側が年長者
- 数字は皇位の継承順
- 継承に関係のない筋は省略
歴代君主
高雲
?-409年。字は子雨。北燕の初代天王。恵懿帝。高抜の子。高句麗の王族出身。慕容宝の養子となり慕容雲を名乗った。慕容熙の死後、馮跋に擁立されて燕王となる。北魏との関係は悪化したが高句麗との関係は好転した。寵臣の離班、桃仁に殺害された。後燕の5代皇帝とも解釈される。
馮跋
?-430年。字は文起。北燕の第2代天王。文成帝。馮安の子。慕容熙の不信を得て一時隠遁していたが、皇后苻訓英の葬儀の隙をつき高雲を擁立して慕容熙を処刑した。高雲が殺害されると群臣に推戴されて天王を称した。治政は安定したが晩年は後継争いが起きた。病没。
馮弘
?-438年。字は文通。北燕の第3代天王。昭成帝。馮安の子。馮跋の弟。馮跋が病床に伏せると外戚の宋氏が馮翼の廃嫡を謀ったため乗じて反乱を起こした。馮跋が病没すると天王に即位し馮翼を殺害した。北魏の攻撃を受けて高句麗に亡命するが北魏を恐れる高句麗によって殺害された。