陳琳
publish: 2021-08-10, update: 2026-04-19
?-217年。字は孔璋。広陵郡射陽県の人。何進の主簿を務めた。何進が各地の将軍を召集したとき反対した。何進の死後は冀州に逃れて袁紹に仕えた。官渡の戦いを前にして曹操を中傷する檄文を書いた。後に檄文は蕭統が編纂した『文選』に名文として収められた。病没。
関連
祖珽
生没年不詳。字は孝徴。范陽郡遒県の人。祖瑩の子。范陽祖氏の出身で、勲貴や恩倖と権力を争った典型的な漢人系名族。和士開と争って入獄し、失明してなお権力への情熱を失わなかった。勲貴の斛律光を失脚させたほか、過度な権力闘争により北斉を衰退させた。北徐州刺史に左遷され任地にて没した。
祭遵
?-33年。字は弟孫。潁川郡潁陽県の人。更始政権下で県の吏だったが、容姿と態度を劉秀に気に入られ河北攻略に従った。性は温厚でありながら苛烈であった。儒者であり清廉潔白を信条とし、罪を犯した者は劉秀の一族であっても格殺した。怒った劉秀に逮捕されたが、許されて厳正さを称えられた。征虜将軍、潁陽侯。
萬脩
?-26年。字は君游。扶風茂陵県の人。劉玄政権で信都郡信都県の県令となった。信都郡太守の任光に従い劉秀を迎えた。河北攻略、洛陽、南陽と転戦した。鄧奉の反乱によって宛で孤立し、間もなく病没した。右将軍、槐里侯。