何氏 ( かし )

publish: 2021-12-26, update: 2021-12-26

王朝

章節

retsuden

?-189年。霊思何皇后。南陽郡宛県の人。何真の女子。何進、何苗の妹。屠殺業の家に生まれたが、賄賂によって後宮に入り、劉宏の寵愛を受けて劉弁を産んだ。同じく劉協を産んだ王氏を嫉視して毒殺し、劉協を養育する姑・董氏と後継を争った。董卓が劉弁を廃位すると李儒によって毒殺された。

妹は張譲の養子の妻にあたる。このため何氏一族と宦官の癒着は強く、何進がいかに宦官排斥に動いても、一族全体としては煮え切らず、その計画は宦官勢に筒抜けも同然であった。何進の配下であった袁紹はこれを危惧して何進の参内を止めさせようとしたが、不用意に参内した何進は取り囲まれて殺害されたという。何進の異父弟である何苗もこの混乱によって死んだため、結果として何氏一族の権力は一気に失陥し、宦官と親族の両方の拠り所を失った何氏本人は、董卓に対して為す術がなかった。

関連

韓遂

?-215年。字は文約。元の名は韓約。辺章とともに涼州での名声が高く、土着する羌、氐の不満分子と結びついて反乱した。皇甫嵩の討伐を退けて、以後、服従と反乱を繰り返して巧みに独立を維持した。曹操の攻略に敗北し、逃走先で斬られたとも病死したともいわれる。享年70余歳。

傅俊

? - 31年。字は子衛。潁川郡襄城県の人。王莽政権で襄城の亭長を務め、劉秀を迎えて校尉となった。このとき母と弟を失い昆陽の戦い以後、服喪のため帰郷した。河北攻略中に邯鄲で合流した。劉秀の皇帝即位時には陰麗華を迎える使者となった。積弩将軍、昆陽侯。

劉表

142年-208年。字は景升。山陽郡高平県の人。前漢の魯恭王劉余の末裔。太学で儒学に精通し八及と称された。張倹の逃亡を幇助して自らも追われたが、党錮の禁が解かれると復職して荊州刺史を務めた。荊州を発展させ群雄の一人として割拠したが、曹操の南進の直前に病没した。

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