劉表
publish: 2021-08-06, update: 2026-04-19
142年-208年。字は景升。山陽郡高平県の人。前漢の魯恭王劉余の末裔。太学で儒学に精通し八及と称された。張倹の逃亡を幇助して自らも追われたが、党錮の禁が解かれると復職して荊州刺史を務めた。荊州を発展させ群雄の一人として割拠したが、曹操の南進の直前に病没した。
荊州に長らく居座っている印象があるが、劉表が荊州を掌握したのは実のところ遅い。その時期は、袁術が南陽郡に本拠を固める時期とほぼ変わらない。もともと荊州は荊州刺史である王叡が監督する地であった。王叡は反董卓連合に加わるつもりだったが、その前に以前より不仲であった武陵太守の曹寅の殺害を企てた。これを知った曹寅は王叡の罪を偽造して、長沙太守の孫堅に王叡を攻めさせた。これにより王叡は自害した(189年)。また、反董卓連合として兵をあつめ北上した孫堅は非協力的であった南陽太守の張咨を殺害した(190年)。その後任として南陽郡を実効支配したのが洛陽から逃れた袁術であった。王叡の後任として董卓によって派遣されたのが劉表となる。劉表は荊州の掌握に成功したため、これを危険視した袁術が劉表を追い出すために孫堅を派遣すると、逆に孫堅が敗死する(襄陽の戦い)。この襄陽の戦いは時期が定かではないが、おおよそ陽人の戦い(191年)から匤亭の戦い(193年)の間である。
関連
王戎
234年-305年。字は濬沖。王雄の孫、王渾の子。琅邪王氏。魏、晋の官職を歴任した。呉討伐の一軍を率いるなど大きな功績を残す一方で、職権乱用、軍法違反、贈賄などの容疑を受けた。処世に巧みで、積極的に政治力を発揮しないことで寿命を全うした。竹林の七賢の一人に数えられる。
閻式
?-309年。天水郡の人。閻彧とも。李特たちが難民を連れて益州へ移るとこれに従った。益州刺史として羅尚が着任すると李特の使者として度々往来し、難民側の主張を羅尚に伝える一方で、羅尚から李特への懐柔の窓口となった。李雄の代に尚書令まで昇るが、配下の訇琦、張金苟に殺害された。
禿髪利鹿孤
?-402年。南涼の第2代王。武王。禿髪思復鞬の子。禿髪烏孤の弟。兄の死後王位を継承する。後秦が西秦を滅ぼすと乞伏乾帰の亡命を受け入れた。後秦に対して臣従しつつ後涼と抗争を続けた。病により死去。