皇甫嵩
publish: 2022-02-07, update: 2022-02-07
?-195年。字は義真。安定郡朝那県の人。孝廉、秀才に挙げられたがいずれも辞退した。霊帝から招聘を受けると出仕し、北地太守を務めた。党錮の禁を解除させたほか、黄巾の乱をはじめ後漢末の反乱収拾に各地を転戦した。董卓とは軋轢が多く、一時は投獄されたが、董卓の死後は車騎将軍、太尉を歴任した。病没。
武廟六十四将に選出される名将であるが、三国志演義界隈ではその評価は地味である。 その理由は、あくまでも後漢の朝臣としての立場を貫いた彼の官僚的な身の振る舞いと、謙虚、実直な態度が、乱世に突入しようとする歴史の舞台に似つかわしくなかったことによるだろう。 例えば、信都県令の閻忠が韓信の故事を引いて暗に独立することを勧めたときも、皇甫嵩は拒絶して耳を貸さなかった。 これは、皇甫嵩がいかに人望を得ていたかの結果でもあり、実力がありながら自立しなかった彼らしい逸話の一つである。
政治的な振る舞いを極力避け、実務に注力するのが、彼なりの処世術であったと言える。 そのため、妬まれて敵を作ることはほとんどなかったが、言い方を変えれば政治的配慮に欠けた画一的な態度により、董卓からは一方的に恨まれる例もあった。 しかし、董卓に対しても皇甫嵩は超然とした態度で臨み、個人的な恥辱をうけ投獄されようとも、董卓と一切敵対しようとしなかった。 王允や、李傕、郭汜らの政変でも争いの中心になることは無く、有能でありながらひっそりと表舞台から消えていったことに、歴史の寂しさを感じる人物である。
関連
甘英
生没年不詳。字は崇蘭。西域都護・班超によってローマとの国交を樹立するために大使として派遣された。条支に至って大海に阻まれ任務を断念した。大海がカスピ海、ペルシャ湾、地中海のいずれを指すかは明らかではない。ローマへ到達できなかったものの西方を伝える貴重な情報となった。