甘英 ( かんえい )

publish: 2022-01-27, update: 2026-04-19

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生没年不詳。字は崇蘭。西域都護・班超によってローマとの国交を樹立するために大使として派遣された。条支に至って大海に阻まれ任務を断念した。大海がカスピ海、ペルシャ湾、地中海のいずれを指すかは明らかではない。ローマへ到達できなかったものの西方を伝える貴重な情報となった。

大海の渡航を諦めた理由として、彼が内陸の出身であったため渡海の知識に疎かったことが挙げられる。 例えば甘英の報告の中には海水が飲めないという初歩的な記載まである。 さらに背景を鑑みれば、中央アジアの諸国家は東西の交易によって利益を上げていたため、甘英の任務を知った者は快く思わず、渡海に対して無知な甘英に過大なリスクを吹き込んだのかもしれない。 甘英もまた、リスクを負ってここで死ぬよりは、何かしらの情報をもって帰還したほうが有益だと判断したのであろう。

関連

諸葛玄

?-197年。琅邪郡陽都県の人。諸葛亮の叔父。兄・諸葛珪が急死したため一族の家長を務めた。承制によって豫章太守となるが、朝廷から正式に豫章太守に任命された朱皓と争った。荊州に逃れてまもなく病没したとも、朱皓を支援する劉繇、笮融と敵対して敗死したともあり定かではない。

蓋延

?-39年。字は巨卿。漁陽郡要陽県の人。身長八尺、三百斤の強弓を引いた肉体の持ち主。漁陽太守・彭寵の下で営尉、護軍都尉を兼任した。彭寵とともに劉秀に従い偏将軍、列侯となった。将軍職の上位にあり多くの遠征を指揮した一方で、血気盛んで非法が多かった。虎牙大将軍、安平侯。

麹允

?-316年。金城郡の大豪族の出身。長安陥落時に逃走し、賈疋を説得して長安を奪還した。閻鼎を弾劾して政治を主導した。前趙と一進一退を繰り返すも、人心を得られず、長安は陥落した。平陽に連行されたのち自害したが、同時にその忠義を劉聡から評価された。

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