甘英 ( かんえい )

publish: 2022-01-27, update: 2026-04-19

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生没年不詳。字は崇蘭。西域都護・班超によってローマとの国交を樹立するために大使として派遣された。条支に至って大海に阻まれ任務を断念した。大海がカスピ海、ペルシャ湾、地中海のいずれを指すかは明らかではない。ローマへ到達できなかったものの西方を伝える貴重な情報となった。

大海の渡航を諦めた理由として、彼が内陸の出身であったため渡海の知識に疎かったことが挙げられる。 例えば甘英の報告の中には海水が飲めないという初歩的な記載まである。 さらに背景を鑑みれば、中央アジアの諸国家は東西の交易によって利益を上げていたため、甘英の任務を知った者は快く思わず、渡海に対して無知な甘英に過大なリスクを吹き込んだのかもしれない。 甘英もまた、リスクを負ってここで死ぬよりは、何かしらの情報をもって帰還したほうが有益だと判断したのであろう。

関連

司馬睿

276年-323年。字は景文。東晋の初代皇帝。元帝。司馬懿の曾孫、司馬伷の孫。父司馬覲が死去すると琅邪王を継ぐ。鄴で司馬穎の監視下に置かれたが脱出して琅邪に帰還した。王導の献策に従い建業へ移った。愍帝が殺害されると皇帝に即位した。五馬王の筆頭。病没。在位6年。

張瓘

?-359年。宗族だが系譜は不明。張駿の代に、寧戎校尉、河州刺史を歴任して強勢を作った。張祚討伐のための挙兵を成功させ、張玄靚の輔弼の筆頭となった。宋混を恐れて誅殺しようとしたが、事前に察知した宋混の攻撃を受け、自害した。猜疑心が強く、苛虐であった。

謝霊運

385年-433年。字は宣明。陳郡陽夏県の人。謝瑍の子。謝玄の孫。東晋の康楽公を継いだが、宋では侯に降格された。永嘉郡太守、秘書監、侍中を務めながらも度々辞職し詩作に没頭した。隠遁しつつも生活は豪勢で、騒乱の罪を得て広州に流刑された。道中、脱走の容疑で処刑された。

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