皇甫嵩
publish: 2022-02-07, update: 2026-04-19
?-195年。字は義真。安定郡朝那県の人。孝廉、秀才に挙げられたがいずれも辞退した。霊帝から招聘を受けると出仕し、北地太守を務めた。党錮の禁を解除させたほか、黄巾の乱をはじめ後漢末の反乱収拾に各地を転戦した。董卓とは軋轢が多く、一時は投獄されたが、董卓の死後は車騎将軍、太尉を歴任した。病没。
武廟六十四将に選出される名将であるが、三国志演義界隈ではその評価は地味である。 その理由は、あくまでも後漢の朝臣としての立場を貫いた彼の官僚的な身の振る舞いと、謙虚、実直な態度が、乱世に突入しようとする歴史の舞台に似つかわしくなかったことによるだろう。 例えば、信都県令の閻忠が韓信の故事を引いて暗に独立することを勧めたときも、皇甫嵩は拒絶して耳を貸さなかった。 これは、皇甫嵩がいかに人望を得ていたかの結果でもあり、実力がありながら自立しなかった彼らしい逸話の一つである。
政治的な振る舞いを極力避け、実務に注力するのが、彼なりの処世術であったと言える。 そのため、妬まれて敵を作ることはほとんどなかったが、言い方を変えれば政治的配慮に欠けた画一的な態度により、董卓からは一方的に恨まれる例もあった。 しかし、董卓に対しても皇甫嵩は超然とした態度で臨み、個人的な恥辱をうけ投獄されようとも、董卓と一切敵対しようとしなかった。 王允や、李傕、郭汜らの政変でも争いの中心になることは無く、有能でありながらひっそりと表舞台から消えていったことに、歴史の寂しさを感じる人物である。
関連
司馬攸
246年-283年。字は大猷。斉王。司馬昭の第3子。子がいない司馬師の猶子となった。聡明でありながら人徳を有し、宗族の中で一際輿望を集めた。後継問題を背景に、司馬炎から疎まれて、封地への帰国を命じられた。まもなく病没。司馬攸帰藩事件として、八王の乱の初端と解される。
司馬奕
342年-386年。字は延齢。東晋の第7代皇帝。廃帝。司馬衍の第2子。兄司馬丕の死後即位する。失政によってその勢力を弱体化させつつあった桓温に簒奪を謀られ、廃位されて海西公に降格された。その後は朝廷からの警戒をそらし続けた。病没。在位7年。
章昭達
518年-571年。字は伯通。侯景の乱では建康を守るが落城と共に脱出した。陳蒨と親交を結び、王琳、周迪、陳宝応、留異らの反乱を平定して、陳初の安定に寄与した。その後も、華皎や欧陽紇の反乱を鎮めつつ、後梁や北周と戦った。病没。