李賁
publish: 2021-11-02, update: 2021-11-03
503年-548年。万春の初代皇帝。俚族の出身。梁後期の過酷な政治によって交州が乱れると、挙兵して交州、徳州(ベトナム北部)を支配し万春を建国した。陳霸先らの強い圧迫をうけて度重なる敗北を喫した。逃亡先の屈獠洞の蛮族によって殺害された。在位4年。
関連
任昉
460年-508年。字は彦昇。楽安郡博昌県の人。任遙の子。丹陽尹の主簿となって後に蕭子良の属官に転じた。蕭鸞の不興を買って一時、不遇となるが、蕭衍が政権を握ると禅譲の詔勅などを書き上げた。文筆に優れて「任筆沈詩」と詩にすぐれた沈約と比較して評価された。交際が豊富で財産に執着しなかったという。
朱异
483年-549年。字は彦和。寒門の出身で、蕭衍の貴族制度改革によって台頭した恩倖の代表格。侯景の降伏受入を薦め、一方では東魏との和平を薦めたため、侯景の乱のきっかけを作った。有能ではあったが私心が多く、梁の国政を傾けるに至った。平家物語には奸臣として載る。
范雲
451年-503年。字は彦龍。范抗の子。竟陵八友の一人。はじめ宋の郢州の属官を務めた。斉が興ると蕭子良に仕えて累進し、蕭子良の信任を得て蕭衍と交友を結んだ。蕭衍が挙兵して梁を起こすと、沈約と共に梁朝初期を補佐した。病没。