劉牢之 ( りゅうろうし )

publish: 2021-04-25, update: 2021-10-25

王朝

章節

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?-402年。字は道堅。劉建の子。前漢の楚元王・劉交の末裔。謝玄に招聘されて北府軍を率いて前秦と戦った。謝玄の死後は北府を引き継いだ王恭の配下となった。軍事を取っては常勝であったが政略は皆無であり、王恭、司馬元顕、桓玄を裏切り、最後は人望を失って憂憤のうちに自害した。

劉牢之は複雑な人である。才覚を持ちながら一貫する理念や思想をもたず、裏切りを重ねたという点では、三国時代の呂布に重なるものがある。あるいは、自立する能力がありながら、独立する野望を持たなかった前漢の韓信や後漢の皇甫嵩にも通じる。理念が無かったというよりは、個人の理念を東晋という王朝に依存していたとも言える。その視点で見てみれば、劉牢之は時の権力者や主導者に従ったにすぎず、東晋という王朝は裏切っていない。従順で有能な官僚であった。ただ、この手の人は人生を難しくしがちで、天寿を全うできる人は少ないかもしれない。劉牢之もそれに漏れない。この点で、皇甫嵩は後漢の末期の乱世にありながら命を全うし、家系も存続させている点で一線を画す人である。理念を依存する王朝が斜陽に入れば身を処すことができなくなる。ましてや、劉牢之は謝安、謝玄の体制下で前秦を撃破し、東晋の中興をその目で見た人である。東晋は未だ存続すると信じていても不思議ではない。

関連

干宝

?-336年。字は令升。汝南郡新蔡県の人。干統の孫。干瑩の子。代々呉の官吏を務めた。王導の推薦を受けて史官となり、国史を編纂した。著作郎を経て散騎常侍まで昇る。幅広く著作を残し、『晋紀』『周易注』『春秋左氏函伝義』『周官礼注』『捜神記』がある。

司馬昱

320年-372年。字は道万。東晋の第8代皇帝。簡文帝。司馬睿の末子。司馬奕を廃した桓温に擁立されて即位されたためその実は傀儡であった。即位の翌年には病に伏せり「諸葛亮、王導の如くせよ」と桓温へ遺言した。在位は1年に満たない。

王羲之

303年-361年。字は逸少。王曠の子。王導、王敦の従兄弟甥。人格と才覚を評価されて度々要職へ任官されたが、その度に辞退し地方官への任官を望んだ。後に会稽郡に移住し悠々自適と精進の中から楷書・行書・草書の各書を確立させた。書の芸術性を見出したとされ書聖と称される。
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