邳彤 ( ひとう )

publish: 2021-10-04, update: 2026-04-19

?-30年。字は偉君。信都郡信都県の人。王莽政権では和成郡太守を務め、劉秀が平定に入るとそのまま留任した。王郎の挙兵に靡かず一貫して劉秀を支援した。劉秀が信都郡に入ったとき長安へ帰還する案が多数を占めるなか、王郎を討って河北を平定する利を説いた。太常、霊寿侯。

和成郡は聞きなれないが、王莽が鉅鹿郡を分割して新設した郡のこと。

関連

劉祜

94年-125年。安帝。後漢の第6代皇帝。清河王・劉慶の子。父・劉慶は元々劉炟の皇太子であり、廃嫡された経緯を持つ。劉隆が夭折すると代わって即位した。皇太后・鄧綏の死後、皇后・閻氏や宦官の助力を得て鄧一族を追い落としたが、側近の利己主義を統制できず朝廷を衰微させた。

呂婆楼

生没年不詳。字は広平。略陽郡の人。苻健が後趙から独立すると従った。侍中、尚書など高官を歴任した。苻堅の政変で王猛を推挙し、苻生の殺害に関わった。王猛、強汪、梁平老と共に王佐の才と評された。後涼の呂光は子にあたる。

慕輿根

?-360年。鮮卑の人。早くから慕容皝に服属し、将軍として頭角を現した。後趙戦線で活躍し前燕の中原進出に大きく貢献して太師まで昇った。慕容儁の死後は、傲慢で詭弁を弄し反意を抱いたため、慕容恪によって誅殺された。

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