劉植
publish: 2021-08-16, update: 2026-04-19
?-26年。字は伯先。鉅鹿郡昌城県の人。王郎が挙兵して河北が揺れたとき、昌城県を守って劉秀を迎え入れた。真定王劉楊との婚姻外交を行い、郭聖通との縁組を成立させた。これにより劉秀の河北における地盤を固めた。驍騎将軍、昌城侯。
関連
張駿
307年-346年。字は公庭。前涼の第4代君主。文公。張寔の子。張茂の跡を継ぐ。このとき前涼は東晋と前趙の両国に臣従していたが、前趙が後趙に対して劣勢になると前趙から受けた官爵を廃した。涼州・河州・沙州を定め前涼の最盛期を現出した。病により死去。在位22年。
釈道安
314年-385年。姓は衛。常山郡扶柳県の人。12歳で出家し仏図澄を師とした。仏図澄の死後は各地を流転し門徒を増やした。襄陽に移って檀渓寺に住む頃には盛況した。前秦の襄陽攻略で長安に連行され、以後苻堅をパトロンとした。仏教の研究のほか、鳩摩羅什の招聘や東晋遠征の反対などの建言を行った。
靳準
?-318年。匈奴屠各種の出身。3人の娘を皇后に輩出し、外戚として地位を確立した。皇太弟・劉乂など政敵を失脚せしめた。のちに、第4代皇帝・劉粲を殺害し乱を成した。胡人で天子になった者はいないとし、皇帝ではなく天王を称して東晋への従属を図った。劉曜に包囲されて配下に殺害された。