王雄
publish: 2022-02-21, update: 2026-04-19
507年-564年。字は胡布頭。太原郡の人。王崙の子。太原王氏を称するがその字から自称と考えられる。賀抜岳に従って関中に入り、梁領である漢中方面を攻略した。宇文護の下で北斉を攻めたとき、斛律光の矢が当たったとされ、陣没した。庸国公。
関連
崔季舒
?-573年。字は叔正。博陵郡安平県の人。崔瑜之の子。若くして父を失うも学問に頭角を現し、高琛の属官を経て高歓に重用された。元善見の側近となり「我が乳母」と評されるほど信任される一方で、高澄からも厚く信任され大きな発言力を持った。権力闘争著しい朝廷にあって韓鳳の讒言により殺害された。
張挙
?-351年。後趙の征北大将軍、太尉を歴任した。李農と親交が厚く、張豺と敵対する李農を逃がした。一貫して後趙の朝廷に従ったが、冉閔が国号を改めると、離反して襄国の石祗を頼った。石祗が冉閔に対して劣勢になると、前燕に援軍を求める使者となったが、石祗の死後、見返りの玉璽が偽物だと露見し処刑された。
拓跋普根
?-316年。代の第2代王。拓跋猗㐌の子。父・拓跋猗㐌の死後は中部拓跋部を継いだが、拓跋猗盧が三部を統合するようになるとこれに従った。拓跋猗盧が拓跋六脩に殺されると、拓跋六脩を殺して王位を継いだ。間もなく死去。在位は僅か一ヶ月。跡は子が継いだが名は伝わらない。