徐栄
publish: 2022-01-27, update: 2022-01-27
?-192年。幽州玄菟郡の人。字や出自は明らかでない。董卓に従って中郎将となった。曹操、鮑信、孫堅らと戦って勝利を重ね、董卓の軍事面を大いに支えた。董卓の死後は王允に従い、長安を攻める李傕、郭汜らを迎撃したが、胡軫、楊定らに裏切られ戦死した。
曹操や孫堅を相手に勝利した結果論でいえば、徐栄もまた名将だと言える。この頃の董卓側の諸将の動きとしては、呂布などよりも活躍している。 一方で、董卓の死後は、その旧臣である李傕や郭汜に同調せず、王允に従っていることに特有の信念を感じさせる。 つまり、徐栄は政治家ではなく、官僚的な軍人であった。 故に、徐栄にとってみれば、董卓や王允という時の実力者に政治的配慮から従ったのではなく、あくまで朝廷の臣であり続けて朝廷の命に従ったのである。
有能でありながら、悪く言えば硬直した官僚的思想で動くこの手の身の振り方は、同時代では皇甫嵩もそうであり、いつの時代も歴史の途中退場者にはありがちなものである。 しかし、本来であれば、中央集権的な中華の王朝においては、こういった人材こそが望まれるものである。 治世の能臣は乱世には生きられず、乱世の姦雄は治世には生きられないのが普通である。 徐栄も一人の治世の能臣であったと言えよう。
なお、後に遼東に一大王国を築く公孫淵の祖父・公孫度を遼東太守に推挙したのも、ほかならぬ徐栄である。
関連
臧宮
?-58年。字は君翁。潁川郡郟県の人。県の亭長を務めたが食客を率いて下江軍に入った。劉秀に従って各地を転戦した。公孫述の討伐では岑彭が凶刃に倒れるなど苦戦を強いられたが、電撃戦をもって綿竹、涪城など州内の各地を落した。城門校尉、朗陵侯。
劉祜
94年-125年。安帝。後漢の第6代皇帝。清河王・劉慶の子。父・劉慶は元々劉炟の皇太子であり、廃嫡された経緯を持つ。劉隆が夭折すると代わって即位した。皇太后・鄧綏の死後、皇后・閻氏や宦官の助力を得て鄧一族を追い落としたが、側近の利己主義を統制できず朝廷を衰微させた。
鄧禹
2年-58年。字は仲華。南陽郡新野県の人。雲台二十八将の筆頭。長安留学中に劉秀の知遇を得た。劉秀が河北へ向かうとこれを追って鄴で合流した。大略を見極め人材輩出に異能を示した。劉秀にとってその大器は貴重なもので、関中遠征など多くの大任を授けられた。太傅、高密侯。