応瑒 ( おうとう )

publish: 2021-08-11, update: 2026-04-19

?-217年。字は徳璉。汝南郡南頓県の人。応珣の子。曹操の辟召に応じて丞相掾属、後に五官中郎将文学となった。弟の応璩と共に文名が高く、曹丕や曹植から高く評価された。華北で大流行した疫病のため没し、著作は伝わらない。

関連

石琨

?-352年。汝陰王。石虎の子。石虎の死後は石遵や冉閔に従ったが、冉閔が独自に国号を改めると、冀州を拠点に襄国の石祗と呼応した。冉閔に対して一進一退したが、石祗が劉顕に殺害されると東晋へ亡命した。東晋において亡命は許されず、建康にて処刑された。

拓跋猗㐌

267年-305年。鮮卑族の中部拓跋部の大人。拓跋沙漠汗の子。叔父の拓跋禄官が拓跋部を三分割すると中部を統治した。北方の諸族を攻略したほか、西晋と結んで勃興した前趙と戦った。大柄で馬が潰れるため牛車に乗っていた。

馬成

?-56年。字は君遷。南陽郡棘陽県の人。劉秀が潁川を攻略したころ、安集掾、郟県県令代行となった。北方の守備に長け、并州から幽州にかけて防壁、櫓などを建設した。中央に召還されたときには北方への復職を望む嘆願があり中山太守となった。中山太守、全椒侯。

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