応瑒 ( おうとう )

publish: 2021-08-11, update: 2026-04-19

?-217年。字は徳璉。汝南郡南頓県の人。応珣の子。曹操の辟召に応じて丞相掾属、後に五官中郎将文学となった。弟の応璩と共に文名が高く、曹丕や曹植から高く評価された。華北で大流行した疫病のため没し、著作は伝わらない。

関連

斛斯椿

495年-537年。字は法寿。斛斯敦の子。爾朱栄の配下として転戦して爾朱氏から信任を得た。韓陵の戦いでは高歓を討つために戦うが、敗北後は寝返って爾朱彦伯、世隆兄弟を襲撃して殺害した。後に高歓に対して不安を抱き、保身から元脩と高歓の対立を煽った。西魏の重職を歴任して病没。

劉表

142年-208年。字は景升。山陽郡高平県の人。前漢の魯恭王劉余の末裔。太学で儒学に精通し八及と称された。張倹の逃亡を幇助して自らも追われたが、党錮の禁が解かれると復職して荊州刺史を務めた。荊州を発展させ群雄の一人として割拠したが、曹操の南進の直前に病没した。

蓋延

?-39年。字は巨卿。漁陽郡要陽県の人。身長八尺、三百斤の強弓を引いた肉体の持ち主。漁陽太守・彭寵の下で営尉、護軍都尉を兼任した。彭寵とともに劉秀に従い偏将軍、列侯となった。将軍職の上位にあり多くの遠征を指揮した一方で、血気盛んで非法が多かった。虎牙大将軍、安平侯。

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