徐羨之
publish: 2021-08-08, update: 2026-04-19
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364年-426年。字は宗文。東海郡郯県の人。徐祚之の子。東晋の太子少傅の主簿を務め、桓玄が楚を興すと劉裕の挙兵に従った。劉裕の死に際し傅亮、謝晦、檀道済と共に劉義符の補佐を遺言された。劉義符の廃位を進め劉義隆を即位させた。やがて専横が目立つようになり、劉義符殺害の罪を問われて自害した。
関連
徐統
?-349年。後趙の右光禄大夫、司隷校尉、侍中を歴任した。人を見る目を持ち、若き頃の王猛や苻堅を見出したと逸話が残る。石虎の死後、張豺らが朝政を乱すと、乱には預かれぬとして自殺した。後に、末子である徐攀は苻堅に取り立てられ、琅邪郡太守となった。
姚弋仲
279年-352年。羌の首長。姚柯迴の子。南安郡赤亭県の人。前趙および、後趙に帰属し部族を維持した。石虎の代に河北の清河郡へ移住した。石虎の死後、後趙が混乱すると冉閔や苻洪と戦った。後趙が滅亡すると東晋への臣従を図ったが、まもなく病没した。胡人で天子となった者はいないと言葉を残した。
慕容鍾
生没年不詳。 字は道明。 慕容運の孫。 慕容制の子。 始め西燕に属して慕容永に従ったが、後に妻子を捨てて後燕に離反した。 慕容徳を補佐した南燕創業の功臣で、司徒、都督中外諸軍事、録尚書事など重職を務めた。 慕容超が即位すると失脚し、慕容法、段宏らと反乱したが失敗、後秦へ亡命した。