袁安
publish: 2021-11-26, update: 2021-11-26
?-92年。字は召公。汝南郡汝陽県の人。袁良の孫。県の吏人を務め、孝廉に挙げられた。県令から太守へと着実に昇進し、優れた行政を評価されて太僕へ栄転、以後、司空、司徒を歴任した。外戚の竇氏を弾劾し、清流派の立場を確立してなお失脚せずに現職であり続けた。
祖父・袁良は前漢の太子舎人、後漢の成武県令を務めたが、父の名は(袁昌とする場合もあるが)伝わらず、目立った家柄ではない。 この中から、実力で三公まで昇りつめ、袁氏を一挙に名門に押し上げたため、袁安は汝南袁氏の祖ともされる。 その手腕はとにかく公正であり、厳格でありながら無暗に罰せず、楚王・劉英の謀反事件では多くの者を無罪として上奏したため、劉荘を感心させた。 長年にわたって地方行政に専念する地道な官僚的姿勢もあり、まさに着実に昇進を重ねた生え抜きの三公と言える。
袁安が任官したのは、明帝・劉荘の治世で、劉秀による創業の気風が残る良い時代だったかもしれない。 外戚や宦官の弊害が現れるのはもう少し後ではあるが、それでも晩年には和帝・劉肇が幼くして即位し、外戚・竇憲の専横が進んだ。 袁安が竇一族を弾劾したことは、清流派なる官僚の源流となった。 時代が下って、宦官と外戚の権力闘争が激化すると、清流派の官吏は世論を得て名望を高め、その先駆けである袁安を祖に掲げる袁氏一門は、ますます興隆した。
関連
劉荘
28年-75年。明帝。後漢の第2代皇帝。字は子麗。劉秀の子。もとは東海王で正嫡ではなかったが、郭皇后の廃位により劉彊に代わって皇太子となった。外戚である陰氏、馬氏の自制や、積極的な対外政策により、王朝に全盛をもたらした。創業の功臣を賞して雲台二十八将として祭った。
張奐
103年-181年。字は然明。敦煌郡淵泉県の人。張惇の子。太尉の朱寵に師事するなど学問を志したが、梁冀の招聘を受けて以後は辺境諸国へ赴任した。異民族の鎮撫に長けて、西域や北方に名を轟かせて軍歴を重ねた。竇武らを敗死せしめたことを後悔し、度々宦官を弾劾してその都度謹慎となった。
王梁
?-38年。字は君厳。漁陽郡要陽県の人。彭寵から狐奴県県令代行とされた。河北を攻略する劉秀に従い、野王県県令を務めて洛陽方面を守備した。劉秀の即位時に大司空に抜擢され、中郎将、執金吾を歴任した。軍法違反や運河工事の失敗など度々蹉跌した。河南尹、阜成侯。