張奐 ( ちょうかん )

publish: 2021-12-20, update: 2026-04-19

103年-181年。字は然明。敦煌郡淵泉県の人。張惇の子。太尉の朱寵に師事するなど学問を志したが、梁冀の招聘を受けて以後は辺境諸国へ赴任した。異民族の鎮撫に長けて、西域や北方に名を轟かせて軍歴を重ねた。竇武らを敗死せしめたことを後悔し、度々宦官を弾劾してその都度謹慎となった。

張奐の属官だった頃の董卓との逸話が残る。 張奐は辺境で功を立てることを自らの矜持としており、その志に共感した董卓はあるとき張奐へ贈り物をした。 しかし、張奐は董卓の人となりを好まず、それを受け取らなかったという。 董卓は皇甫嵩からも距離を置かれているように、人の上に立って慕われることはあっても、人の下にあって遇されることの少なかった人物である。

若いころには、当初45万字余りの『牟氏章句』を添削し、9万字に要約したことが梁冀の耳に入り、その文章は東観に保管された。 章句とは経書を解説した書物であり、前漢に流行したものの、多くの学説や思想が盛り込まれたため、冗長、肥大化し後漢以降は廃れた。 張奐はこの肥大化した冗長な文章を整理し、研究したものである。 謹慎するたびに著作に励み、『尚書記難』を著して、著書は24篇におよんだ。 また、多くの弟子を取った。 学問に精通したことは家柄にも現れていて、子の張芝は書家として名を残した。

関連

高叡

534年-569年。小名は須抜。趙郡王。渤海郡蓨県の人。高琛の子。父が若くして処刑されたため、高歓に引き取られて父の爵位を継いだ。刺史を歴任して農業、養蚕の振興や長城の修築を行って評価された。兵の監督にも優れて人望を集め、軍の統御に卒がなかった。和士開を弾劾して不興を買い、劉桃枝に殺害された。

王朗

生没年不詳。後趙の領軍、車騎将軍を歴任し、石虎に重用された。石虎の死後、後趙が乱れると長安に駐屯し、東晋の北進に備えた。冉閔と敵対し、冉閔に通じた麻秋によって誅殺されかけると、襄国の石祗を頼った。張挙、石琨らと鄴の冉閔を攻撃したが敗北した。前秦に降った後、事跡は不明。

韓范

?-410年。慕容徳に従った南燕創業の臣。姚興と共に前秦の太子中舎人を務めたことが、後に後秦との和親に繋がった。劉裕が北伐したとき後秦に赴くも、援軍を得られないと知って南燕の天命を悟り東晋に降った。劉裕からは信任され南燕の旧領を委任されたが、劉穆之に謀反を告発されて処刑された。

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