袁安 ( えんあん )

publish: 2021-11-26, update: 2026-04-19

?-92年。字は召公。汝南郡汝陽県の人。袁良の孫。県の吏人を務め、孝廉に挙げられた。県令から太守へと着実に昇進し、優れた行政を評価されて太僕へ栄転、以後、司空、司徒を歴任した。外戚の竇氏を弾劾し、清流派の立場を確立してなお失脚せずに現職であり続けた。

祖父・袁良は前漢の太子舎人、後漢の成武県令を務めたが、父の名は(袁昌とする場合もあるが)伝わらず、目立った家柄ではない。 この中から、実力で三公まで昇りつめ、袁氏を一挙に名門に押し上げたため、袁安は汝南袁氏の祖ともされる。 その手腕はとにかく公正であり、厳格でありながら無暗に罰せず、楚王・劉英の謀反事件では多くの者を無罪として上奏したため、劉荘を感心させた。 長年にわたって地方行政に専念する地道な官僚的姿勢もあり、まさに着実に昇進を重ねた生え抜きの三公と言える。

袁安が任官したのは、明帝・劉荘の治世で、劉秀による創業の気風が残る良い時代だったかもしれない。 外戚や宦官の弊害が現れるのはもう少し後ではあるが、それでも晩年には和帝・劉肇が幼くして即位し、外戚・竇憲の専横が進んだ。 袁安が竇一族を弾劾したことは、清流派なる官僚の源流となった。 時代が下って、宦官と外戚の権力闘争が激化すると、清流派の官吏は世論を得て名望を高め、その先駆けである袁安を祖に掲げる袁氏一門は、ますます興隆した。

関連

謝霊運

385年-433年。字は宣明。陳郡陽夏県の人。謝瑍の子。謝玄の孫。東晋の康楽公を継いだが、宋では侯に降格された。永嘉郡太守、秘書監、侍中を務めながらも度々辞職し詩作に没頭した。隠遁しつつも生活は豪勢で、騒乱の罪を得て広州に流刑された。道中、脱走の容疑で処刑された。

劉懿

?-125年。少帝。後漢の第7代皇帝。済北王・劉寿の子。劉炟の孫。劉祜の死後、皇太后・閻氏によって擁立されたが、間もなく病没した。後に、孫程によって閻一族が粛清されると、王に降格されて改葬された。正史である范曄の『後漢書』では皇帝として扱われない。

元朗

513年-532年。北魏の第12代皇帝。安定王、または後廃帝。拓跋濬の甥元彬の孫、元融の第3子。反爾朱氏を掲げて挙兵した高歓に擁立されて即位した。高歓が爾朱氏を滅ぼすと廃位された。安帝王に降格され同年、高歓によって殺害された。

page /opt/build/repo/content/dynasties/025_後漢/retsuden/92_袁安.md