高叡
publish: 2022-03-28, update: 2022-03-28
534年-569年。小名は須抜。趙郡王。渤海郡蓨県の人。高琛の子。父が若くして処刑されたため、高歓に引き取られて父の爵位を継いだ。刺史を歴任して農業、養蚕の振興や長城の修築を行って評価された。兵の監督にも優れて人望を集め、軍の統御に卒がなかった。和士開を弾劾して不興を買い、劉桃枝に殺害された。
関連
畢義雲
生没年不詳。代々刺史職を務め、施しをもって困窮者を救ったが、元来の性は豪縦であり、羊烈や宋遊道から誹られた。倫理に欠如しており、乱れた性生活、散財、過度な懲罰は朝野の知るところとなり、あるとき突然、怪死した。蘭子暢の捜査によれば犯人はその遺留物から庶子の畢善昭とされる。
崔季舒
?-573年。字は叔正。博陵郡安平県の人。崔瑜之の子。若くして父を失うも学問に頭角を現し、高琛の属官を経て高歓に重用された。元善見の側近となり「我が乳母」と評されるほど信任される一方で、高澄からも厚く信任され大きな発言力を持った。権力闘争著しい朝廷にあって韓鳳の讒言により殺害された。
楊愔
511年-560年。字は遵彦。弘農郡華陰の人。楊津の子。名門、弘農楊氏の出。幼くして寡黙、沈着で言論に優れた。北鎮の乱を経て高歓に仕官し行台郎中となった。公文書を扱って枢機に預かり、高洋の即位後は侍中、尚書令を歴任した。高演、高湛の排除を目論み露見し殺害された。