楊愔
publish: 2022-03-08, update: 2026-06-25
511年-560年。字は遵彦。弘農郡華陰の人。楊津の子。名門、弘農楊氏の出。幼くして寡黙、沈着で言論に優れた。北鎮の乱を経て高歓に仕官し行台郎中となった。公文書を扱って枢機に預かり、高洋の即位後は侍中、尚書令を歴任した。高演、高湛の排除を目論み露見し殺害された。
蘭京による高澄殺害の現場に居合わせた一人で、狼狽して逃走し、片方の靴を現場に残した逸話が残る。
関連
王球
393年-441年。字は倩玉。琅邪郡臨沂県の人。王謐の子。王導の玄孫。太守として統治に優れ、中央に入って侍中、州大中正、中書令を歴任した。権臣との過度な交流を避け顔延之ら文人との交友を持った。持病のため解任されたが無官のまま劉義隆の諮問が絶えなかった。
賈充
217年-282年。字は公閭。賈逵の子。賈南風の父。曹爽の失脚後、司馬氏に取り立てられた。曹髦殺害を指揮して罪に問われなかったように、司馬氏の腹心として絶大な信任を得た。派閥を好み、人事評価は好悪が先んじた。西晋建国の功臣として筆頭に挙がる。病没。
司馬乂
277年-304年。字は士度。長沙王。司馬炎の第6子。八王の一人。兄・司馬瑋が罪に問われたとき連座したが、三王起義に加わり中央に戻った。司馬冏が悪政を行うと、司馬顒に協力して司馬冏を捕縛した。まもなく司馬顒、司馬穎と対立し戦況は優位に進んだが、降伏を望む司馬越に裏切られ殺害された。