畢義雲
publish: 2022-03-14, update: 2026-04-19
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生没年不詳。代々刺史職を務め、施しをもって困窮者を救ったが、元来の性は豪縦であり、羊烈や宋遊道から誹られた。倫理に欠如しており、乱れた性生活、散財、過度な懲罰は朝野の知るところとなり、あるとき突然、怪死した。蘭子暢の捜査によれば犯人はその遺留物から庶子の畢善昭とされる。
畢義雲は北斉書の酷吏伝にその名が載るように、控えめに捉えても敵の多い人物であった。 そのような分かりやすい悪の高官が、突然、何者かによって殺害されたのであるから、現代の醜聞よろしく、当時も巷の噂を掻っ攫ったことであろう。
殺害の凶器は畢善昭の剣だったとされ、蘭子暢の捜査では畢義雲の愛妾であった盧氏と密通していたのが畢善昭だったという。 畢善昭も父に劣らず人格が破綻した人物で、侍女を強姦しては父から鞭を打たれたり、拷問に近い折檻を受けていた。 親も親なら子も子である。 いわば親子関係のもつれが殺害動機とされるが、何やら陰謀めいた動きも見れる怪事件である。
関連
宇文導
511年-554年。字は菩薩。宇文顥の子。宇文泰の甥。北鎮の乱では宇文泰とともに葛栄の軍に加わり後に賀抜岳に従った。東魏戦線では主に留守役を務めて、後備えとして前線を支えたほか、内地の反乱にも対応して、西魏体制の恒久化に貢献した。章武郡開国公まで昇り、皇族に次いで序列が高い。
耿弇
3年-58年。字は伯昭。扶風茂陵県の人。耿況の子。更始帝・劉玄が立ち王莽が敗れると、王莽政権下で上谷太守を務めた父の命で使者として長安に上ったが、途上で劉子輿を偽称する王郎の挙兵に阻まれ劉秀に仕えた。計略に優れ、後に曹操や檀道済に引用された。建威大将軍、好畤侯。
朱异
483年-549年。字は彦和。寒門の出身で、蕭衍の貴族制度改革によって台頭した恩倖の代表格。侯景の降伏受入を薦め、一方では東魏との和平を薦めたため、侯景の乱のきっかけを作った。有能ではあったが私心が多く、梁の国政を傾けるに至った。平家物語には奸臣として載る。