畢義雲 ( ひつぎうん )

publish: 2022-03-14, update: 2026-04-19

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生没年不詳。代々刺史職を務め、施しをもって困窮者を救ったが、元来の性は豪縦であり、羊烈や宋遊道から誹られた。倫理に欠如しており、乱れた性生活、散財、過度な懲罰は朝野の知るところとなり、あるとき突然、怪死した。蘭子暢の捜査によれば犯人はその遺留物から庶子の畢善昭とされる。

畢義雲は北斉書の酷吏伝にその名が載るように、控えめに捉えても敵の多い人物であった。 そのような分かりやすい悪の高官が、突然、何者かによって殺害されたのであるから、現代の醜聞よろしく、当時も巷の噂を掻っ攫ったことであろう。

殺害の凶器は畢善昭の剣だったとされ、蘭子暢の捜査では畢義雲の愛妾であった盧氏と密通していたのが畢善昭だったという。 畢善昭も父に劣らず人格が破綻した人物で、侍女を強姦しては父から鞭を打たれたり、拷問に近い折檻を受けていた。 親も親なら子も子である。 いわば親子関係のもつれが殺害動機とされるが、何やら陰謀めいた動きも見れる怪事件である。

関連

元顥

?-529年。字は子明。北海王。元詳の子。六鎮の乱が起こると、侍中、驃騎大将軍、開府儀同三司、相州刺史など強力な軍権をもって対応した。爾朱栄が政変を起こすと、保身を図って梁へ亡命した。蕭衍に皇帝として擁立され洛陽を攻略するが、爾朱栄の反撃に相次いで敗れ戦死した。

王永

?-386年。北海郡劇県の人。王猛の子。扶風郡太守を務め幽州刺史となった。淝水の戦い以後、続発する反乱に尽力した。苻堅の処刑が河北に伝わると、苻丕を皇帝に推戴し諸国へ檄を飛ばした。晋陽を拠点として交戦したが、西燕の攻撃を受けて戦死した。

袁安

?-92年。字は召公。汝南郡汝陽県の人。袁良の孫。県の吏人を務め、孝廉に挙げられた。県令から太守へと着実に昇進し、優れた行政を評価されて太僕へ栄転、以後、司空、司徒を歴任した。外戚の竇氏を弾劾し、清流派の立場を確立してなお失脚せずに現職であり続けた。

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