慕容会
publish: 2021-10-20, update: 2021-10-25
?-397年。清河王。慕容宝の庶子。慕容垂に皇太孫とされたが、父、兄弟と折り合いが悪く慕容垂の死後、廃された。龍城に駐屯して北魏に敗れた父を救ったが、軍を取り上げられて慕容農と慕容隆に分配されたため、二人の暗殺を謀った。暴挙を知った慕容宝と交戦するも敗北し、中山へ逃亡したところを慕容詳に捕殺された。
祖父・慕容垂からはいたく寵愛され、生前に皇太孫に指定されているように、その性格は積極的で知性にあふれていたようである。 しかし、巧詐は拙誠に如かずとはこの事かもしれない。 父・慕容宝は慕容会に不満を持ち、兄・慕容盛も内心では慕容会を嫌って、これらの不和が廃太子につながった。
軍功に驕るところがあり、慕容農や慕容隆が訓戒したときには改心するどころか逆恨みを持った。 このことが、慕容会による慕容農、慕容隆の暗殺につながる。 暗殺計画を実行に移したとき、その成功を疑わなかった慕容会は、父・慕容宝に対して、二人が謀叛を計画していたため先んじて誅殺したと報告する。 ところが、二人のうち慕容農は重体ながら生きていた。 これにより慕容宝は全貌を知るところとなり、慕容会は結果、身を滅ぼすことになる。
後燕では一族が多く重用されているが、どうも慕容垂には人を見る目が無い。 慕容会についても、その例の一つである。
関連
慕容策
386年-398年。濮陽王。慕容宝の子。美少年と記録が残る。父・慕容宝からは愛され、慕容会が太子から廃されると新たな太子として立てられた。段速骨、および蘭汗が反乱すると、擁立されたが、間もなく殺された。
慕容詳
?-397年。後燕の開封公。慕容皝の曾孫。中山に鎮した。慕容宝と対立する慕容会が中山へ逃げると捕縛し処刑した。慕容宝が北魏に敗れて薊に逃れると、皇帝を称して建始と改元した。悪政と評されて長続きせず、慕容麟に攻められ殺された。
慕容垂
326年-396年。字は道明。後燕の創建者。成武帝。慕容皝の第5子。桓温の北伐を撃破した。慕容恪の死後、慕容評との確執を恐れ前秦に亡命した。淝水の戦い以後前秦から独立し後燕を建てた。翟魏、西燕を滅ぼした。北魏に出兵したおり陣中で病没。在位13年。