西涼
(section)publish: 2021-11-12, update: 2026-07-11
目次
章節
標籤
概要
| 名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
|---|---|---|---|
| 西涼 | 400 | 421 | 21 |
西涼は李暠によって建てられた王朝。
主な出来事
背景
李暠は隴西李氏を出自とする。 隴西李氏は後に唐の宗室がその出自として自称し、唐代には五姓七望のひとつとして数えられる大貴族である。 『新唐書』における李氏の系譜は半ば伝説に足を踏み入れており、その中には老子(李耳)や秦の大将軍・李信の名が見られる。 唐室の出自は隴西李氏ではないという見解があり、この場合、前述の系譜は唐室が出自とするために粉飾されている可能性がある。
その系譜の真偽はともかく、隴西李氏が隴西から河西回廊にかけて多くの房族を構成する大族であったことに間違いはない。 祖父の李弇は前涼の天水太守を務めて安世亭侯に封じられている。 父の李昶は夭折するもその遺子として李暠は生まれた。 段業が北涼を樹立すると、李暠は漢人の輿望を集めて敦煌太守となり、北涼が段業の下でまとまりを得ないと、北涼から離反した唐瑶に涼公に推戴された。
- 400
- 北涼から独立する
- 417
- 李暠が没する
- 421
- 北涼が敦煌を攻略する(西涼の滅亡)
長らく同盟を結んだ南涼が北涼によって(直接には西秦によって)414年に滅亡すると、北涼の矛先は西涼に向けられた。 さらに、417年に李暠が没すると、後継した李歆の政治不安もあって、西涼は衰退した。 420年、李歆は北涼へ遠征して捕縛、処刑され、酒泉は陥落した。 その後を李恂が継いで敦煌を本拠としたが北涼に攻略された。
系譜
歴代君主
李暠
351年-417年。字は玄盛。西涼の創始者。武昭王。李昶の子。隴西郡狄道県を本貫とする隴西李氏。段業が後涼から独立して北涼を建てたとき敦煌太守となる。晋昌太守の唐瑶に推戴されて北涼から独立した。殖産と貿易により内政を安定させ、漢文化の保持に務めた。病没。
李歆
?-420年。字は士業。西涼の第2代公。後主。李暠の第2子。父の死後公位を継ぐ。父・李暠の政策を継承し東晋に臣従した。刑賞の乱れや財政難を起こし失政が続いた。北涼への遠征を強行するも、逆に北涼の沮渠蒙遜に大敗し捕らえられて処刑された。
李恂
?-421年。西涼の第3代君主。末主。李暠の第5子。兄・李歆が北涼の沮渠蒙遜に大敗し処刑されると、首都酒泉から残党をまとめて旧都敦煌へ逃れた。北涼の追跡を退けて敦煌を支配するも、改めて北涼の攻撃を受けた。籠城のすえ敗れて自害した。