袁渙
publish: 2026-09-30, update: 2026-10-01
生没年不詳。字は曜卿。陳郡扶楽県の人。袁滂の子。劉備の秀才に推挙され袁術、呂布、曹操に仕えた。常に公正でいずれの主君からも礼遇された。魏の郎中令、御史大夫まで昇った。その死に対して曹操は涙し古い友人として穀物を下賜したという。
三国名臣頌に魏の名臣の一人として数えられる。
目立った実績こそ少ないが、その人格を顕彰する逸話は多い1。 袁術の相談には常に正論で応えたために敬われ、呂布から劉備を罵倒する文を書くことを強いられたときには反論をもって呂布を自省させた。 地方官を歴任してその姿勢は常に民衆第一であり、蓄財をせずに困窮すれば人目を憚らずに必要なものを借りた。 劉備の死が噂されたときかつて任用されたことのある袁渙だけがそれを喜ばなかった。 そもそも、袁渙は自分の行為によって自分の名声が高まることを好まなかったので、史書に自身の列伝が載ること自体が本望ではないかもしれない。 真の良吏は名を残さない。 袁渙はまさにそういう類型の人であろう。
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『三国志』巻十一 魏書十一 ↩︎
関連
苻洪
284年?-350年。字は広世。元の姓を蒲とする。氐の出身。前趙、後趙に従い、石虎の代には使持節、都督六夷諸軍事、冠軍大将軍を受任し、西平郡公に封じられた。石虎の死後は冉閔と対立し、関中一帯に自立したが、麻秋に毒殺された。その勢力は子の苻健に引き継がれ、前秦の実質的な創建者と捉えられる。
慕容廆
269年-333年。慕容渉帰の子。慕容吐谷渾の弟。前燕の基盤を築いた。元来西晋に帰属していたが国勢を年々弱める西晋に変わって遼西・遼東の統治体制を確立させた。引き続き東晋に臣従し遼東公に封じられた。病没。鮮卑慕容部の大人としての在位は49年。
侯莫陳崇
?-563年。字は尚楽。代郡武川鎮の人。侯莫陳興の子。爾朱栄、および賀抜岳の下で転戦した。賀抜岳が侯莫陳悦に殺害されると宇文泰を迎え入れた。宇文護の死を予想したため、宇文邕の譴責を受けたほか、宇文護の圧力を受けて自害した。