魏

publish: 2021-10-05, update: 2026-08-20

歴代君主

主な宗族

主な人物

袁渙📖

生没年不詳。字は曜卿。陳郡扶楽県の人。袁滂の子。劉備の秀才に推挙され袁術、呂布、曹操に仕えた。常に公正でいずれの主君からも礼遇された。魏の郎中令、御史大夫まで昇った。その死に対して曹操は涙し古い友人として穀物を下賜したという。

荀彧📖

163年-212年。字は文若。潁川郡潁陰県の人。若い頃に何顒から王佐の才と称えられた。董卓と袁紹の下を去り曹操に仕官した。曹操の魏公進爵に反対した。孫権征討の際に病気のために寿春に留まり憂いにより没した。漢の侍中、光録大夫、持節まで昇った。諡は敬。万歳亭侯。

荀攸📖

157年-214年。字は公達。潁川郡潁陰県の人。荀彝の子。何進が名士を集った時の一人として黄門侍郎を拝した。董卓暗殺を企てて投獄され、董卓の死後、献帝を擁立する曹操に仕えた。多くの献策と推挙を行って魏の創業に大きく貢献した。孫権征討の従軍中に没した。諡は敬。陵樹亭侯。

崔琰📖

163年-216年。字は季珪。冀州清河郡東武城県の人。崔密の子。始め袁紹に仕えたが袁紹が死ぬと袁譚、袁尚のいずれにも出仕せず曹操の招聘に応じた。曹操の魏公封爵とともに尚書となり後に中尉まで昇った。魏王昇爵を賛美する上奏を批判したとして丁儀に讒言され処刑された。直言の士。

陳羣📖

?-237年。字は長文。豫州潁川郡許昌県の人。陳寔の孫。陳紀の子。孔融に認められて名を世間に知られた。始め劉備に仕えたのち荀彧の推挙で曹操に招聘された。曹操の魏公封爵に従って御史中丞となり、重職を歴任して司空まで昇った。人物鑑定に長けた。九品官人法を建議した。潁陰靖侯。

徐邈📖

172年-249年。字は景山。燕国薊県の人。曹操の河北平定時に仕官した。県令、太守、刺史を歴任するたび道徳的で民に寄り添う行政手腕が評価された。蓄財しないために曹叡からは生活費を特別に支給された。司空を辞退し相応しい人物がいなければ空位とすべしとした。諡は穆。都亭侯。

夏侯玄📖

209年-254年。字は太初。豫州沛郡譙県の人。夏侯尚の子。昌陵郷侯。太常まで昇る。若くして名声を高めて曹叡からはその軽薄さを嫌悪された。興勢の役として蜀へ出兵するが成功しなかった。九品官人法の実務を批判した。李豊、張緝らと司馬氏一党を除く政変を企み露見して処刑された。

陳泰📖

?-260年。字は玄伯。陳羣の子。母は荀彧の娘。豫州潁川郡許昌県の人。魏の侍中、光禄大夫など中央職を歴任する一方で、優れた統率力を発揮して各州諸軍事の都督として蜀呉の侵略を度々鎮めた。司馬昭の信任も厚かったが、甘露の変において司馬昭と賈充を痛烈に批判し間もなく没した。穆侯と諡された。

王経📖

?-260年。字は彦緯。冀州清河郡清河県の人。農家の出身だが曹丕の代に名士として名を知られた。軍事には明るくなく姜維の北伐に大敗して陳泰から批判を受けた。魏の司隷校尉、尚書まで昇ったが、甘露の変にて曹髦に近侍し続けたため反逆罪に問われて処刑された。後に司馬炎によって名誉を回復された。

魚豢

生没年不詳。雍州京兆郡の人。魏の郎中となるが、そのほかの事跡は不明。私撰である『魏略』、および『典略』を著した。著書のほとんどは唐代後期に散逸し、現存ずるものはごく一部であるが、正史『三国志』を始め、他の史書の引用、転載として継承されたと考えられる。倭国に関する最古の記述と目される。

劉曄📖

生没年不詳。字は子揚。九江郡成徳県の人。成徳侯・劉普の子。阜陵王・劉延の末裔。曹操が寿春を攻略するころ蔣済や胡質と共に出仕した。魏が成ると関内侯、侍中となった。曹丕、曹叡の側近として太中大夫、大鴻臚を歴任するが、晩年は疎まれて失意のうちに没した。東亭侯。

王祥📖

185年-269年。字は休徴。琅邪郡臨沂県の人。王融の子。伯父・王叡が孫堅に殺害されると一族と共に廬江へ逃れ、以後仕官を固辞し続けた。60歳を過ぎて徐州刺史・呂虔の招聘に応じ別駕となった。以降、経歴は温県令に始まり大司農まで昇り魏の重臣となった。西晋では太保、睢陵公まで昇った。

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