荀彧
publish: 2026-09-29, update: 2026-09-30
163年-212年。字は文若。潁川郡潁陰県の人。若い頃に何顒から王佐の才と称えられた。董卓と袁紹の下を去り曹操に仕官した。曹操の魏公進爵に反対した。孫権征討の際に病気のために寿春に留まり憂いにより没した。漢の侍中、光録大夫、持節まで昇った。諡は敬。万歳亭侯。
晩年は曹操と確執があったとされる。 董昭らが曹操の魏公進爵を荀彧に相談したとき、荀彧は以下のように反対した。
君子愛人以德,不宜如此。1
君子は徳をもって人を愛するもので、そのようなこと(魏公進爵を勧めること)はすべきではない。 それが荀彧の考えだった。 ここで「君子は徳をもって人を愛す」というのは些か唐突で説明を要すると思う。 これは『礼記』の以下の記述に依っている。
君子之愛人也以德,細人之愛人也以姑息。2
君子は徳をもって人を導くが、小人は甘やかして人を駄目にする。 そのような意味を持つ。 要するに荀彧は曹操を甘やかしては駄目だと言い、正しい行いで死ぬのであれば本望だという信条を礼記を援用して述べているのである。 曹操をすら甘やかすなという視座の高さこそ荀彧の精彩と言えるだろう。 しかし、その考えを知った曹操からすれば心穏やかではないことは想像に難くない。 曹操の反応は以下の通りそのまま記録されている。
太祖由是心不能平。
この確執から何らかの決定的な出来事が起きて、それが死因に直結したという考え方が古来から歴史家たちの議論になっている。 ただし、『三国志』では荀彧の死について以下のように短く記されるのみである。
彧疾留壽春,以憂薨1
疾(病気)とあるように、心労が重なって体調を崩しそのまま亡くなったというのが素直な受け取り方である。 憂は死因を曖昧にさせがちな含みのある表現で、それゆえに賜死や自殺を想起させる。 史書に憂と書かれていることは、病身を憂うような一般的な感覚を越えて、何か特別な憂いを抱えていたことを示唆している。 それが魏公進爵の件に関わっていると考えるのは文脈からして自然である。 荀彧は以下のような考えも述べている。
太祖本興義兵以匡朝寧國,秉忠貞之誠,守退讓之實
曹操は朝廷を救って国を安んじるために兵を興し、忠誠と謙譲を保ってきた。 これが荀彧から見た曹操像である。 おそらく、ここに荀彧の漢室を尊重する姿勢と、曹操に対する理想を見ることが出来る。 荀彧が魏公進爵に反対する理由は二つある。 魏公という位人臣を極める爵位で曹操を甘やかすべきではないという教育的理由と、漢室のためには今まで通り忠誠と謙譲を保持して欲しいという政治的理由である。 荀彧が大きな憂鬱を抱えていたとすれば、それは政治的な理由によるものと考えざるを得ない。 教育的な理由ならば魏公になったとしても曹操を正しく導く機会はあるはずで、そもそも魏公となって曹操が蹉跌するとも限らない。 いくら先見の明がある荀彧と言えどもまだ起こってもいないことで大きな憂いを抱えるとは考えられない。 この場合は魏公進爵そのものよりも、それを公然と勧めようとする董昭らの軽率な動きに反対したとも取れる。 従って、荀彧が抱えていた大きな憂鬱とは、解決不能な矛盾や葛藤、つまり漢室を尊重する意志と、曹操の偉業を助ける意志の排反なのである。
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