夏侯徽 ( かこうき )

publish: 2026-09-18, update: 2026-09-18

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211年-234年。沛国譙県の人。字は媛容。夏侯尚の娘。夏侯玄の妹。司馬師の妻。母は曹真の妹で曹爽は従兄にあたる。つねに見識と度量があったと評価される。夫・司馬師との不和により死を賜った。司馬師の後妻・羊太后の働きかけで皇后を追贈された。諡は懐。景懐皇后。

司馬師との不和の原因は、司馬師が魏の忠臣でないことを夏侯徽が悟った1ことによるという。 これは司馬氏と魏王朝の確執の表れとしてはかなり早い。 賜死された234年といえば諸葛亮が没した年であり、司馬懿による正始政変(高平陵の変)の十五年前、さらに兄の夏侯玄が司馬氏に反して刑死する二十年前に当たる。 司馬懿は曹叡の信任の下で軍政の頂点に昇りつめようとする過渡期にあった。 この時代はまだ司馬氏一族に曹氏を圧迫し魏を簒奪しようとする明確な証拠があったようには思われない。

死の真相に疑義があることは既に北宋の司馬光が同様のことを『資治通鑑考異』にて述べて2おり、彼がこの事象を『資治通鑑』に採用しなかった理由としている。 夏侯徽は魏の宗室に近い出自であり、司馬師が賜死するにはあまりにも角が立つ相手である。 夏侯徽は若くして病没したが、時代を経て七不思議や都市伝説のように尾ひれがついた、というのが司馬光に倣った冷静な見方であろう。

夫との間には男子こそいなかったものの、女子を五人もうけていることは、必ずしも冷え切った夫婦関係ではなかったことを示している。 司馬氏も夏侯徽の知性を愛して何事も必ず相談していたと記録される。 死後三十年以上に渡って皇后の追贈がなされなかったのは、やはり男子がいなかったことと、在世の短さであろう。 後妻の羊徽瑜は夏侯徽とも同年代であったこともあり、夭折した彼女を憐れんで前妻も表敬するよう訴えた。


  1. 『晋書』巻三十一 列伝第一 后妃上 ↩︎

  2. 『資治通鑑考異』巻三 青龍二年 ↩︎

関連

元顥

?-529年。字は子明。北海王。元詳の子。六鎮の乱が起こると、侍中、驃騎大将軍、開府儀同三司、相州刺史など強力な軍権をもって対応した。爾朱栄が政変を起こすと、保身を図って梁へ亡命した。蕭衍に皇帝として擁立され洛陽を攻略するが、爾朱栄の反撃に相次いで敗れ戦死した。

謝霊運

385年-433年。字は宣明。陳郡陽夏県の人。謝瑍の子。謝玄の孫。東晋の康楽公を継いだが、宋では侯に降格された。永嘉郡太守、秘書監、侍中を務めながらも度々辞職し詩作に没頭した。隠遁しつつも生活は豪勢で、騒乱の罪を得て広州に流刑された。道中、脱走の容疑で処刑された。

陶潜

365年-427年。字は淵明。陶侃の曾孫。393年以降、断続的に東晋の属官として出仕するが、官吏の職務を嫌い彭沢県の県令を最後に隠遁生活に入った。晴耕雨読の中で詩文を残し、桃源郷の語源を作った。その詩業は世俗から離れた理想を表現したものとして評価が高い。陶淵明の名で知られる。

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