李弼
publish: 2021-05-16, update: 2026-04-19
494年-557年。字は景和。遼東郡襄平県の人。李永の子。爾朱天光に従って関中に入り軍功を立てた。勇猛であり常に先鋒を務めたため、当たるもの無しと恐れられた。賀抜岳を殺害した侯莫陳悦に宇文泰への降伏を促したが、入れられなかったため自身は宇文泰に降伏した。東魏戦線を転戦して西魏の重鎮となる。病没。
関連
劉表
142年-208年。字は景升。山陽郡高平県の人。前漢の魯恭王劉余の末裔。太学で儒学に精通し八及と称された。張倹の逃亡を幇助して自らも追われたが、党錮の禁が解かれると復職して荊州刺史を務めた。荊州を発展させ群雄の一人として割拠したが、曹操の南進の直前に病没した。
慕容恪
?-367年。字は元恭。慕容皝の第4子。後趙、宇文部、高句麗を相手に多くの戦線に従軍した。後趙滅亡を機に中原へ進出し版図を広げた。治政にも優れ前燕の最盛期を築いた。病没。当代随一の宰相、将軍として歴史に残る。武廟六十四将に数えられる。
孟宗
?-271年。字は恭武。江夏郡の人。李粛に学問を学び、朱拠の属官となった。呉県令を務める間に母を亡くした。職務を放棄して喪に服したため、処刑されそうになるが陸遜の助命により減刑された。孫亮の廃位に関わり、司空まで昇った。母に筍を食べさせた逸話から孟宗竹の語源となった。