虞翻
publish: 2026-10-02, update: 2026-10-02
164年-233年。字は仲翔。会稽郡餘姚県の人。虞歆の子。会稽太守だった頃の王朗に仕えたのち孫策、孫権に仕えた。古の狂直と評され多くの不快な行跡から孫権の怒りを買って追放同然で交州に左遷された。易経に精通して『易注』を著したほか、天文や医学にも通じる博学であった。
三国名臣頌では呉の名臣の一人に数えられる。
虞翻は十二歳という年少のおり、兄に面会した客が自分に挨拶しなかったことを不満に持ち、
仆闻虎魄不取腐芥1
琥珀は埃を受け付けないと聞いたことがある、と痛烈な皮肉の手紙をしたためている。 自らを琥珀、相手をごみと例えているのだから、この手紙を受け取った客は良い意味でも悪い意味でもさぞ驚いたであろう。 虞翻とはこのような人物である。 このような人が酒を飲んだらどうなるか、裏切り者と相対したらどうなるか、馬鹿げた雑談を小耳に挟んだらどうなるか。 細々とした事例すべてをここでは紹介はしない。 個々の逸話は皮肉が効いていてそれはそれで面白いので、興味のある方は『三国志』の当人の伝を参照されたい。 孫権を始めとする多くの人にその才を愛されたにもかかわらず、ついには孫権自身も我慢できずに虞翻を左遷した。 平凡な庶民感覚でいえば、自分の職場にはいて欲しくないと率直に思う一方で、くれぐれも他山の石として自身も自戒しなければならないと思わせてくれる。 そんな人物ではある。
晩年は虞翻も少し自制するところがあったようで、後に孫権が皇帝に即位したことを知り、祝福と反省の上書を送っている。 罪を許されても南方に留まり、その博識を活かして学問を講じ、弟子は数百人に上ったというから、自らの居場所は政治ではなく学問であったと悟ったのであろう。 この種の人間は孔融や禰衡のように寿命を全うしないことを考えれば、まだ虞翻は人間が出来ていたほうなのかもしれない。
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『三国志』巻五十七 呉書十二 注引『呉書』 ↩︎
関連
蕭賾
440年-493年。字は宣遠。蕭斉の第2代皇帝。武帝。蕭道成の第1子。父蕭道成の死後皇帝に即位した。国力増強に傾注し、検地の実施、戸籍の整理などに行政手腕を発揮した。政治にも明るく貴族に対抗する皇帝権力の強化に務めた。在位中は国内が安定した。在位11年。
慕容徳
336年-405年。字は玄明。南燕の初代皇帝。献武帝。慕容皝の子。前燕の范陽王。前燕が滅びると前秦に降って張掖太守を任じられた。淝水の戦いで前秦が大敗すると兄・慕容垂に従って後燕の車騎将軍となる。北魏の攻撃により慕容宝が北へ逃れると、山東半島で独立し皇帝を称した。
李邽
生没年不詳。遼西郡の人。もともと冉魏の趙郡太守を務めたが、前燕の南進が至ると降伏した。慕容恪に取り立てられ、後に豫州刺史を拝受した。前燕の斜陽が深まるなか東晋の桓温の糧道を断った。前燕滅亡後は前秦の尚書となるが、以後の事跡は定かではない。