呉
publish: 2021-10-05, update: 2026-10-13
目次
章節
標籤
概要
| 名称 | 成立 | 滅亡 | 期間 |
|---|---|---|---|
| 呉 | 222 | 280 | 58 |
呉は孫権が建てた王朝。 三国時代における三国のひとつ。
主な出来事
前史
孫権の祖父は孫鍾と言い瓜を売っていたとされる。 父・孫堅は海賊退治を皮切りに世に出て、朱儁や張温の配下で転戦し最終的に袁術の支配下にはいったが、劉表との抗争で戦死した。 兄の孫策は若くして光彩を放ち、袁術の部将として江南方面に展開した。 揚州刺史の劉繇が逃走するころには帷幕は多士済々とし、孫策は袁術から独立した。 呉という国家の姿かたちは、この孫策によって成形されたと言える。 その後、孫策は刺客によって夭折するものの、孫策が築いた基盤は孫権に継承された。
建国
- 200
- 孫権が討虜将軍、会稽太守となる
時期は官渡の戦いの直前で、曹操は袁紹と対峙して孫権を懐柔せざるを得なかった。
- 208
- 赤壁の戦い
- 210
- 歩騭が士燮を降伏させる(交州の領有)
- 219
- 関羽を滅ぼす(荊州の領有)
- 221
- 孫権が魏の呉王となる
- 222
- 元号を黄武とする
一般にこれをもって呉の建国と解釈される。
- 229
- 孫権が皇帝に即位する
二宮の変
二宮の変は皇太子・孫登の死によって立太子された孫和と、魯王に封じられた孫覇の政争である。 皇子同士の対立ではあるが、その裏では二人を支持する重臣や親族の利害が複雑に絡み合っていて単純な二項対立では説明できない。 また、孫和の廃太子と孫覇の死によって一応の解決を見たものの、内部の歪はなお残っており、孫休が即位するまで関係者の確執が人材を消耗し続けた。
- 241
- 皇太子・孫登が没する
- 242
- 孫和を立太子し、孫覇を魯王に封じる
おそらく孫登の唐突な死さえなければ、たとえ何かしらの政争が避け得ないものだったとしても、その結果は様変わりしたであろう。 ちょうどその頃、呉では後に芍陂の役と呼ばれる魏に対する大規模な北征を展開しており、孫登の死によって全軍撤退となった。 呉の運命を決定づける最大の事変こそが二宮の変である。 そして、二宮の変が変事として認識されるのは孫覇の魯王封爵からである。
孫覇を魯王に封じたところに、孫権の意図を感じざるを得ない。 何故なら、孫権は皇子を王に封じることや、皇后を立てることに元々慎重だったからだ。 孫権が皇帝に即位してから孫覇が魯王に封じられるまでの間に王や皇后になった者はいない。 皇后を立てよ、王に封じよと言ったのは群臣なのである。 故に、寵愛から王に封じたというよりは、何かしらの圧力から王に封じたように見える。
霸爲魯王,寵愛崇特,與和無殊。1
孫覇は孫権から寵愛されたとあるが、それは寵愛されていたが故に魯王に封じられたのか、何らかの理由で魯王に封じて待遇を孫和と同じくしたことが周りから寵愛と見えたのかでは、因果関係に大きな違いがある。 そもそも、本当に寵愛していたのであれば、後に孫覇を賜死するのは不自然である。 孫和を廃しても後に戻そうとしているあたり、孫覇よりも孫和に将来を見ていたはずで、だからこそ孫和を皇太子にしたのではなかったか。 ただ、人の人を見る目というのは移ろいやすいものでもある。 二宮の変は十年に渡っている。 対して、このとき孫和は十九歳、孫覇は十代前半だったことを考えれば、十年の間に彼らも変わり孫権の考えも変わったであろう。
孫登の死によって孫和が皇太子となることに瑕疵はない。 では、なぜ孫権は孫覇を魯王に封じたのか。 ここに、孫権が単純に耄碌したとする考え方もできる。 しかし、袁紹のように笑いものになる苦悩を孫峻に漏らす人間性も記録されており2、老人性の偏狭があったにせよ、それだけに原因を求めるのは少しながら横暴であろう。 とはいえ、孫権に何かしらの意図があったとして、それが皇帝権を強める意図や、豪族を弱体化させる意図だったとしても、それは推測の域を出ない。 ここでは、孫覇を魯王に封じた理由について明確にはしないが、それは寵愛によるものというよりは、何かしらの意図や圧力によるものであろうという結論に留めておく。
- 243
- 丞相・顧雍、太子太傅・闞沢、太子少傅・薛綜が没する
- 244
- 陸遜が丞相となる
- 245
- 吾粲が処刑され、陸遜が憤死する
吾粲と陸遜はともに孫和の正統性を説き、孫覇に阿る楊竺や全奇を批判するものだったが、これが孫覇派の強い反発を招いた。 陸遜は楊竺から提出されたニ十箇条の弾劾文をもって孫権から問責された3。 また、同時期に孫権は楊竺の孫和廃太子に賛同しており、これを知った陸胤が陸遜に相談したともされる4。 陸遜は六十三歳であった。 また、この頃、全寄の讒言によって顧譚、顧承、張休、姚信らも流刑となっている。
- 246
- 歩騭が丞相、全琮が右大司馬、朱然が左大司馬となる
歩騭、呂岱、呂拠、全琮は孫覇派として記録される2が、孫覇派としての具体的な活動の事例はない。 彼らは孫覇派というよりも与党に対抗する野党というのが実体であろう。 政治に与党と野党があるのは健全である。 全琮は孫魯班を妻とし、全奇を子としていることから、本人としては積極的ではなくても家庭の事情から孫覇派に属さざるを得ない事情が見える。
- 247
- 歩隲が没する
- 248
- 全琮が没する
- 249
- 朱然が没する
- 250
- 孫和を廃し、孫覇を賜死する
孫和派で反対した陳正、陳象は処刑され、屈晃は免職、朱拠は左遷となった。 なお、朱拠は赴任時に孫弘が捏造した詔書によって自害させられた。 孫覇派では全寄、呉安、孫奇が処刑された。 同じく孫覇派の諸葛綽は実父の諸葛恪に毒殺された。 孫権は末子の孫亮を皇太子とした。 十年に渡る闘争の結着としてはあまりにも唐突な処置であった。 年末から年明けにかけてこれを察知した魏の王昶によって戦役が発生していることから、外部から見ても混乱の様相が窺われたものと思われる。
孫峻、孫綝の暴政
政争の余熱はまだ続く。
- 252
- 孫権が崩ずる
孫亮はこのとき十歳であり、孫権は諸葛恪、孫峻、孫弘、呂拠、滕胤を顧命大臣とした。 孫権の享年は七十一歳。 十代から呉を牽引すること五十余年。 父兄の創業があったとはいえ、その実績から一代の英雄であることに異論を差し挟む余地はないだろう。 だが、選ばれた五人のうち三人は、結果から見れば後事を託すのにふさわしい人物だったか怪しい。 このとき、孫弘はかねてから軋轢があった諸葛恪を排除しようとして、逆に諸葛恪によって誅殺された。
- 253
- 孫峻が丞相となる
孫権が死去したとき、魏は対呉の軍を催した。 諸葛恪はこれを撃退したが、さらに北伐を強行して失敗したため、孫亮の意を得た孫峻に誅殺された。 これにより、孫峻は丞相となって呉の実権を掌握した。
- 256
- 孫峻が没する
孫峻は史書において「驕矜險害」と記録される。 孫峻は諸葛恪を誅殺するという前例を作った以上、自身もその前例に倣わざるを得なかった。 孫峻は孫英や孫儀らによってたびたび粛清を計画されてはこれを察知して誅殺した。 孫権の娘・孫魯育もこの頃に誅殺された。 そんな孫峻は俄かに病を発して三十八歳で急死した。 その死の前には、呂拠の軍営が整然としていることに不安を覚えて退出した記録と、諸葛恪に殴られる夢を見たという記録があり、本人なりに精神的負荷が極限に達したことが察せられる。 位打ちという言葉があるように、過ぎた権力に身を滅ぼした者は、古今東西、枚挙に暇がない。 自身の能力を超えた権力を持つおそろしさを、孫峻はその権力を持って初めて知ったのであろう。 孫峻に害された者たちこそ哀れではあるが、孫峻もまた生き地獄を見た一人かもしれない。 孫峻は孫綝を後継者に指名した。
孫峻を後継した孫綝は、何の実績もない、まだ二十五歳の青年であった。 呂拠は広陵方面の戦地においてこれを聞き、滕胤を丞相に推挙するとともに、武昌に駐屯した滕胤と連携して孫綝を除かんと軍を返した。 だが、悪人の悪知恵とはよく言ったもので、二人の動きを捉えた孫綝の応変もまた早かった。 孫憲には呂拠を迎撃させ、劉丞には滕胤を攻撃させた。 皇帝を擁する孫綝に対して、呂拠と滕胤には謀反人という弱みがあり、二人とも君側の奸を除く大義で人心を収攬することが出来なかった。 滕胤は処刑され呂拠は自害した。
- 258
- 孫亮が廃位される
諸葛恪、孫峻、孫綝と権力の代替わりが行われて、呉の負の連鎖はここに極まった。 孫亮と孫綝の関係も悪化して、孫亮が孫綝の暗殺を計画すると、孫綝は孫亮の廃位を決めた。 孫綝は軍を動かして、暗殺計画に加担した全尚、孫魯班を流刑、劉承を処刑するとともに、廃位に反対する桓彝を殺害した。 孫綝は孫休を皇帝に据えた。 孫亮はこのとき十六歳であったことを鑑みれば、本人が積極的に孫綝の誅殺を企図したか疑わしいが、軍を動かした孫綝に対して自らも武装、乗馬して出陣しようとする豪胆な人でもあったようである5。
- 258
- 孫綝が丞相となる
- 259
- 孫綝が処刑される
孫綝が孫休を擁立したのは興味深い。 孫亮を廃して孫休を迎えるとき、孫綝は自ら皇帝に即位することを考えた私利私欲の持ち主である6。 孫休は即位時、孫亮よりも八歳年上の二十四歳であった。 孫綝が御しやすい若く無能で血統のよい候補は他にいたはずである。 孫綝が何を考えたのか、あるいは何も考えていなかったのか分からないが、いずれにしてもこの決定が孫綝の誤算となった。 孫休は張布、丁奉に相談して孫綝を誅殺した。 孫綝は二十八歳であった。
廃位された孫亮は会稽王となったが、復位の予言が広まったために候官侯に降格され、封国への道中で自殺した。 あるいは孫休が毒殺したという異説もある7。 孫亮が孫権に指名された正統な後継者であることに比べれば、孫綝に擁立されたに過ぎない孫休の立場は弱々しくならざるを得ない。 これ以上の権力闘争を止めるべく、孫亮の生死に関する何かしらの決定がなされたとしてもおかしくはない。 皇帝の廃立に後味の良さなど望むべくもないが、孫権に嘱望された遺児、孫亮はこうして生涯を終えた。 孫亮は全氏を皇后に迎えていたが、子は伝わらない。 後年、呉が滅亡してから、かつて孫亮の少府であった戴顕が改めて葬儀したという。
末期
- 264
- 孫休が崩ずる
孫休は三十歳という若さで急逝した。 孫休の即位によって二宮の変以来、呉で断続した政争は収束して、呉に中興の光が差したかに見えた。 その矢先の夭折であった。 孫休の治世は、蜀の滅亡や交州の反乱など多難であった。 それに比べて、孫休が頼みとした濮陽興や張布は、往年の呉を創業させた名臣と比べると頼りなく、呉の朝廷は二宮の変以来、その質を数段下げてしまったように見える。 この不安は、濮陽興ら首脳が痛いほどに自覚していた。 孫休の死後、皇太子の孫𩅦が即位するかに思われたが、濮陽興、張布、万彧らは幼帝が立つことを恐れて、より年長の孫晧(孫和の子)を帝位に即けた。 濮陽興、張布は間もなく孫晧を立てたことを後悔し、それが漏れ伝わって粛清されたという。
- 280
- 孫皓が降伏する(呉の滅亡)
孫晧は名君と暴君の両面の評価を持つ。 王朝の最後となった皇帝を明君とは評価しようがないが、かといって暴君と即断してしまうのも短絡的かと思う。 そもそも一個の人間には優れた面と劣った面の両面があるのは当たり前であり、その両面を見ずに断罪するのはそれこそ暴虐であろう。 孫晧は詩や書に精通した才人だった。 詩人としては司馬炎に対して即興で詠まれた『爾汝歌』が有名であり、書家としては梁の庾肩吾が評論した『書品』において全九段のうち五番に格付けされている。 孫晧は決して無学無才ゆえの暗君ではない。
孫晧の治世を俯瞰したとき、最大の特徴として目に映るのは改元の数である。 その数は十六年間で八度に及ぶ。 三国時代に限って言えば、孫晧はその治世において最も改元した皇帝である。 改元とは世の改まりを意味し、吉祥があれば縁起を担ぎ、災禍があれば心機を一転するものである。 故に、孫晧の改元の多さは、孫晧がどうにかして国威を発揚させようとした苦心の表れと言えよう。 孫晧が即位した頃、当時まだ魏であった司馬昭政権から呉は降伏勧告を受けた。 これは司馬昭の死と司馬炎による晋の成立によってうやむやになったが、孫晧や呉の朝廷にとって大きな衝撃となったことは容易に想像できる。 かつて赤壁の戦いを前にして孫権は曹操から降伏を勧告されたことがあった。 当時はまだ中華の大勢が定まっていない時代であったために、開戦論と降伏論に分かれて朝廷は良い意味で熱を帯びた。 しかし、巴蜀を併呑した西晋を相手に、もはや当時のような活発な議論が行われたとは思われない。 冷めきった朝野に活気を与えるため、改元を初め、武昌への遷都と建業への還都、顕明宮の造営などを行ったのだとすれば、孫晧は甲斐甲斐しい皇帝にも見える。 しかし、そのような孫晧の試みが空回りに終わってしまえば、臣や民の負担だけが残る。 孫秀、孫楷、歩闡などの離反には正にそのような背景があり、孫晧ただ一人に責を求めるのは辛い。 ましてや王朝が滅んで亡国の事跡としてそれらが記述されてしまえば、孫晧は暴君にしか見えなくなるのも当然である。 孫晧が吉凶や予言などの流言飛語に飛びつきやすく、讒言を取り上げやすい傾向も、孫晧が呉を重く背負っていたからこそ表面化した人格と言えるのではないか。
系譜
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孫堅
【追】武烈帝
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孫策
【追】長沙桓王
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孫権
大帝
1
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孫登
宣太子
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孫和
南陽王
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孫皓
末帝
4
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孫覇
魯王
-
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孫休
景帝
3
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孫亮
廃帝
2
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歴代君主
主な宗族
主な人物
虞翻📖
164年-233年。字は仲翔。会稽郡餘姚県の人。虞歆の子。会稽太守だった頃の王朗に仕えたのち孫策、孫権に仕えた。古の狂直と評され多くの不快な行跡から孫権の怒りを買って追放同然で交州に左遷された。易経に精通して『易注』を著したほか、天文や医学にも通じる博学であった。
顧雍📖
168年-243年。字は元歎。呉郡呉県の人。父の名は不明。蔡邕に師事した。後漢の合肥県令を初め地方官を務めたのち孫権に仕えた。十九年の長期にわたり丞相を務めた。寡黙、公正で孫権には顧公が酒席にいると人々は楽しめないとまで言わしめた。諡は粛。醴陵侯。次子の顧裕が継いだ。
孟宗📖
?-271年。字は恭武。江夏郡の人。李粛に学問を学び、朱拠の属官となった。呉県令を務める間に母を亡くした。職務を放棄して喪に服したため、処刑されそうになるが陸遜の助命により減刑された。孫亮の廃位に関わり、司空まで昇った。母に筍を食べさせた逸話から孟宗竹の語源となった。
陸抗
226年-274年。字は幼節。呉郡呉県の人。陸遜の子。母は孫策の娘、妻は張承の娘で諸葛恪の姪。陸遜が死去すると建業に赴き父の生前の疑惑を解いた。後に孫権から陸遜の冤罪について謝罪を受けた。荊州に駐屯し羊祜と鎬を削ったほか、個人的な親交を結んで羊陸之交の故事成語を残した。大司馬、荊州牧まで昇る。