鮑照
publish: 2021-10-28, update: 2026-04-19
414年-466年。字は明遠。東海郡襄賁県の人。貧しい家柄に生まれ、臨川王・劉義慶に仕えたほか、臨海王・劉子頊の下で前軍参軍を努めた。劉子頊が反乱すると、混乱のなか殺害された。詩人として高名で、その作風は通俗的と批判される一方で、躍動的にして新奇的であり、後世に大きな影響を残した。
妹の鮑令暉も詩人として知られる。
得意としたのは楽府 と呼ばれる形式で、それ自体が『宋書』の「楽志」に記載される文学作品である。この文体を楽府体という。 楽府はもともと前漢の武帝の時期に音楽を管掌する役所として設立されたが、後に楽府に集められた歌謡そのものを指すようになった。 時代が下るにつれて、民間歌謡もその範囲となり、西晋以降に形式として確立して南北朝時代に全盛となった。 これらは古楽府と呼ばれ、唐代以降は白居易によって新楽府に取って代わられていく。
鮑照自身が寒門の出身であったため、属官のみならず中央職を歴任したものの、海虞県令、永嘉県令など比較的下級職に留まった。 このことは鮑照にとって挫折として捉えられ、腐敗する貴族社会への抗議、民衆の苦難などが、その詩風に現れる。
関連
慕容宝
355年-398年。字は道祐。後燕の第2代皇帝。恵愍帝。慕容垂の第4子。参合陂の戦いで大敗し衰亡の端緒を作った。慕容垂の死後一族の内紛を抑えられず、北魏の圧力と南燕の自立により中原を失った。失地回復のため北魏と戦うが敗北し配下の蘭汗に殺害された。在位3年。
劉懿
?-125年。少帝。後漢の第7代皇帝。済北王・劉寿の子。劉炟の孫。劉祜の死後、皇太后・閻氏によって擁立されたが、間もなく病没した。後に、孫程によって閻一族が粛清されると、王に降格されて改葬された。正史である范曄の『後漢書』では皇帝として扱われない。
石勒
274年-333年。字は世龍。後趙の創建者。明帝。劉淵に従い前趙の将軍として河北を転戦し、西晋の幽州刺史王浚、并州刺史劉琨など、諸勢力を滅ぼした。前趙から独立して後趙を建て、河北に拠って前趙を滅ぼした。奴隷から皇帝まで上った中国史上唯一の人物とされる。在位15年。