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publish: 2020-05-31, update: 2026-08-20

概要

名称 成立 滅亡 期間
420 479 59

宋は、劉裕が東晋の司馬徳文から禅譲を受けて成立した王朝。 治世のうち、およそ半分の二十九年間は元嘉の治と呼ばれる第三代皇帝・劉義隆の治世にあたり、政治、経済、 文化の安定をもたらした。 同時代に北魏が華北を統一した。 正式な国号は「宋」だが、他の宋王朝と区別して「劉宋」とも表記される。

特徴

恩倖

恩倖とは皇帝や宗族に取り入って信任を受け特別な待遇を得た者たちをいう。 当時の貴族は生まれながらにして貴族であり、この権力は皇帝ですらも排除できないものであった。 従って、非貴族が官吏として出世するには、その能力の高低だけではなく、貴族に対抗しうる地盤や後ろ盾を得る必要があった。 一方で、そもそも東晋の司馬氏が地盤を持たずに中央から赴任した背景もあって、南朝では皇帝の権力が土着の地盤を持つ貴族に比較して弱いという一貫する課題があった。 さらに、南朝では北来の貴族が中央において権力を掌握しようとする動きもあり、元来の漢、魏、晋が経験してきた皇帝権力の在り方とは別に、その立ち位置が複雑化した。 皇帝は貴族に代わる忠誠心の高い優秀な人物を欲し、非貴族は貴族のように地盤を持たなくても立身できる後ろ盾を欲した。 ここに両者の利害を一致する恩倖という層が発生した。

当然、恩倖が出世するには、自分が仕える主君を出世させる必要がある。 その上昇志向が作り出す圧力は、権力の階層を上って、最終的には軍権をもつ宗族を突き上げた。 宋の宗族には、自ら望むかどうかを別にして、下からの突き上げによって帝位すらも狙わざるを得ない側面があった。 ましてや、その宗族が幼年であれば、その存在自体が立身を望む者たちの道具でしかない。 南朝で度々起こる宗族に対する大量の粛清は、恩倖同士の権力抗争に、その権力の源泉である宗族が巻き込まれた結果であった。

帝位継承の難

恩倖の存在は劉裕が宗族に強い権限を持たせたために生まれた。 劉裕は寒門出身の軍人であった。 東晋が傍系とは言え西晋の宗族の流れを汲み、司馬氏を遡れば後漢における河内郡の名士であることとは対称的である。 劉裕は前漢の劉邦の弟である楚元王・劉交の末裔を自称したが、要するに個人的な実力のみを拠り所として皇帝に即位した。 東晋は貴族が絶妙に権力をけん制しあって、その調和の元で国内の政治を安定させたのに対し、宋は東晋とは違って特に軍事力を貴族に委ねなかった。 東晋の象徴でもあった西府と北府は、宋に受け継がれるにあたって、その監督者に宗族が任命された。

これは劉裕が、宗族の権力の弱い東晋を教訓にしたとも言えるが、宗族の権力が強まった結果、恩倖の台頭を許し宗族同士の抗争を助長した。 宋王朝を俯瞰した時、帝位の継承時に例外なく宗族が争い誰かが死んでいる。 皮肉にも、西晋が八王の乱を引き起こしたのと同じ背景を宋は有することになり、その根本には劉裕が実力のみで成り上がった実力主義的な風潮があった。 また、そのような風潮は、皇帝に一切の瑕疵を認めない風潮でもあった。 皇帝に少しでも隙があれば、宗族に取り入ろうとする恩倖たちは、自らの主君を皇帝に据えようと動き出す。 宋以降の王朝は、皇帝の代替わりに非常な危険を伴った。

蠱毒と山越文化

第三代皇帝・劉義隆の子・劉劭は皇太子でありながら、蠱毒を行った罪で廃太子された。 蠱毒とは呪術の一種にあたる。 それは、昆虫や爬虫類、両生類を同じ容器で飼育して共食いをさせ、残った一匹を放つことで相手を呪い殺すというものである。 蠱毒は山越一帯の異民族の風習で、歴代の王朝は蠱毒を禁止した。 つまり、蠱毒は皇太子が廃されるほどの罪であった。

劉劭の事例は、華南はまだ非漢民族の存在が明確にあったことを示す。 華南は経済的に大きく躍進していたが、それでも、当時の淮南には野生のゾウが生息しており、たびたび家屋を破壊したと記録され、未開の地が多く残されていた。 東晋末期から宋初期の人である陶潜(陶淵明で有名)は、桃源郷の出典である『桃花源記』を記しており、この桃源郷とはすなわち、華南で漢民族と交流していない非漢民族の集落を示唆している。 山越一帯の非漢民族は漢民族の進出を受けて完全に融合していく過渡期にあった。 非漢民族の隠れ里を理想郷として描いて評価されたということは、当時の非漢民族の集落が失われつつある憧憬であったことを意味する。 胡漢の融合は華北だけではなく、形こそ違えど華南でも起きた事象であった。 なお、桃源郷は理想郷としてユートピアと同義に扱われるが、元来、桃源郷とユートピアは似て非なる正反対のものとされる。 ただし話がずれるので、これはまた、別の機会に着目したい。

主な出来事

東晋末

劉裕の名が歴史に記録されるのは孫無終の司馬(副官)に始まる。 孫恩の乱が起こると劉牢之の要請により劉裕は劉牢之の参府軍事となった。 その後、劉裕は劉牢之の配下として転戦したが、乱に乗じて桓玄が挙兵すると劉牢之もこれに同調しようとしたため、劉裕は劉牢之と決別して挙兵し桓玄を討伐した。 桓玄によって廃された司馬徳宗(安帝)を復位させた功績により、劉裕は朝廷第一の実力者となった。

その後、北伐して南燕を攻略し、孫恩の乱を引き継いだ盧循の討伐、益州で独立した譙縦の後蜀を滅ぼすなど着々と功績を重ねた。 さらに、劉毅、諸葛長民、司馬休之ら政敵を徐々に排除し地盤を確固たるものにしていった。 ついには、北伐によって洛陽および長安を奪還して後秦を滅ぼすと、劉裕は九錫を与えられて相国まで昇った。 後に、長安と洛陽は失陥するも、西晋から東晋へ南遷してからの悲願を達成した劉裕の地盤はもはや揺るがなかった。

成立

420
劉裕が司馬徳文(恭帝)から禅譲を受ける(宋の成立)

劉裕は王韶之に命じて鴆毒をもって司馬徳宗(安帝)を殺すと、その弟の司馬徳文(恭帝)を立てて宋王となり、まもなく禅譲を受けて皇帝に即位した。 なぜ、司馬徳宗を殺してから司馬徳文から禅譲を受けるという回りくどいことをしたのかは分からない。 ただ、司馬徳宗は知的障害を持っていたというから、禅譲を受けるに相応しい皇帝として扱われなかったのかもしれない。

422
劉裕(武帝)が崩ずる
424
劉義符(少帝)が廃される

劉裕の皇帝としての治世は足掛け三年に過ぎない。 その後は、長子で皇太子の劉義符が継ぎ、その後見として徐羨之、傅亮、檀道済、謝晦が補佐を任されたが、彼らは劉義符の暗愚を理由に皇太后の令を得て劉義符を廃位し殺害した。 劉義符は十九歳という若さであった。 徐羨之らは劉義符に代わって劉義隆(文帝)を即位させた。

426
徐羨之、傅亮、謝晦が失脚する

宋の皇帝権は劉裕一人の実力によって成り立っていた。 劉裕の死から劉義隆が立つまでの混乱はこの権力の揺らぎと言える。 徐羨之らは劉裕に重用されたが、劉裕という指導者を失ってからの彼らは朝廷において専横的であった。 劉義符を廃位したことには一定の道理はあったかもしれない。 しかし、新帝の候補に劉裕の次子・劉義真の名が挙がると、謝霊運や顔延之ら大貴族を政敵と見なす徐羨之は、彼らと親密であった劉義真を弾劾して庶人に落した。 これでは最早、貴族同士の抗争に皇帝を私的に巻き込んだものに過ぎない。 徐羨之らが皇帝に立てたのは後ろ盾の少ない第三子の劉義隆(文帝)であった。 劉義符、劉義真はまもなく殺害された。

二人の兄の死を目の当たりにした劉義隆ほど、自身の立場が不安定なものと自覚した皇帝は少ないであろう。 だが、劉義隆は傀儡に甘んじるほど惰弱でもなかった。 劉義隆は二人の兄を殺害した罪で徐羨之、傅亮、謝晦を弾劾した。 徐羨之は自害、傅亮は刑死、謝晦は兵を挙げたが檀道済に討伐された。 劉裕の死後、皇族を巻き込んだ権力闘争が起きたことは、後に皇族の粛清が絶えない宋王朝全体を特徴づけるものであった。

元嘉の治

劉義隆は即位にあたって元号を元嘉とした。 この間は、徐羨之ら建国の功臣たちとの貴族闘争に決着を見たことと、北魏が華北統一の最中にあり外患が少なかったこと、劉義隆が皇帝を長く務めて政治的安定をもたらしたことから、経済、文化が大いに興隆した。 これを元嘉の治と呼ぶ。 安定した国情は、後に元嘉三大家と呼ばれる鮑照、謝霊運、顔延之を筆頭に多くの文化人を輩出した。

436
檀道済が粛清される
449
北魏が宋に侵略する

北魏は439年までに夏、北燕、北涼を滅ぼして華北を統一した。また、この年、常に漠北を侵す柔然を北伐して徹底的に叩くとしばらく北魏の北辺は安定した。 同年、淮北、淮南を巡って国境を抗争する宋に対して、北魏は軍を南下させた。

この南征は号して百万という北魏きっての大規模な軍旅で、宋は亡国こそ免れたものの江北の地はことごとく荒れ果てる惨敗を喫した。 北魏軍は建康対岸の瓜歩の要塞まで至り、宋の朝廷を震撼させたことは瓜歩の難と呼ばれた。 北魏軍は撤退したものの、宋の国威は大いに低下した。

末期

453
劉義隆(文帝)が殺害される

一般に、宋王朝の第四代皇帝は劉駿とされているが、第三代皇帝・劉義隆のあとに皇帝として即位した人物がいた。 劉義隆の子・劉劭である。 劉劭は皇太子という立場ながら、巫蠱を行ったとして廃太子が検討された。 劉劭はこれを察知して父・劉義隆を殺害し、自ら皇帝となった。 しかし、これを認めない劉劭の弟・劉駿が挙兵し、劉劭を処刑した。 劉劭の在位は僅か三ヶ月で『宋書』において劉劭は元凶劭の名で記されて皇帝として扱われない。

464
劉駿(孝武帝)が崩ずる
466
劉子業(前廃帝)が殺害される
466
劉子勛が鄧琬らに擁立される

劉駿が三十五歳で没したとき、劉子業は十五歳で即位した。 そのような青年に対して史書は狂悖無道と評価が手厳しい。 現代から見れば未成年の彼がどれほどの政治的意向を持っていたかは分からないが、少なくとも親政や中央集権化を望んでいたようで、劉子業は東宮にあって長らく彼に近侍した戴法興をその権勢を嫌って免官した。 戴法興の裁可を仰ぐ面々は昇進したが、このような強引な権力の行使に危機感を覚えた劉義恭、柳元景、顔師伯は劉子業の廃位を計画した。 この計画は沈慶之にも話が進んだが、彼らと親しくはなかった沈慶之はこの計画に加担しなかった。 ほどなくして計画は露見し劉義恭らは処刑された。 このとき鬼目粽と呼ばれる残酷な処刑方法が用いられたという。 沈慶之は太尉へ栄転していることから、一般に沈慶之が密告したと解釈されている。 沈慶之には劉子業に対する一定の期待があったと思われる。 沈慶之は東晋末の孫恩の乱を経験している老臣で、齢八十に達していたが、劉子業の傍にあって諫争を尽くした。 しかし、若き劉子業には老人の言葉はただ煩いだけであったのだろう。 劉子業は沈慶之を遠ざけて賜死した。 劉子業も大人しく賜死に服した沈慶之を敬して侍中を追贈、忠武と諡し、最高位の葬列を許した。

劉子業は弟である劉子鸞とその同腹の弟妹を殺害した。劉子鸞は劉駿に最も寵愛された子であり、直接的には劉子業がそれを嫉視したものではあるが、劉駿の覚えを良くしたい官人はこぞって劉子鸞の府を出入りしたというから、政党派閥の形成を危険視した理由も間接的にはあるかもしれない。 いずれにしても、劉子業の弟たちであるからにして十歳以下の年少者たちを権力の下に一方的に害することは暴力以外の何物でもない。 劉子業の望む親政は一種の恐怖政治として出現した。

劉子業廃位の動きは促進した。 何邁は劉子業の弟・劉子勛を擁立する計画を立てた。 何邁は劉裕の公主・劉欣男を母とし、劉義隆の公主・劉英媚を妻、妹の何令婉を劉子業の皇太子妃とする宋王朝の一門の立場にあった。 ところが、劉子業は自らにとっては叔母でもある何邁の妻・劉英媚を自らの貴嬪とした。 この倫理に逸脱した劉子業の行いが何邁に廃位を計画させたであろうことは想像に難くない。 しかしこの計画も露見して何邁は処刑された。

何邁に擁立された劉子勛は劉子業の異母弟であり、まだ十歳の年少であったが江州刺史として任地にあった。 劉子業は何邁を処刑すると、劉子勛を害すべく朱景雲を派遣した。 しかし、朱景雲は江州長史・鄧琬にこれを前もって知らせたため、鄧琬は劉子勛を擁して兵を挙げた。 同時期、中央にあった劉彧は阮佃夫、李道児、寿寂之らとともに劉子業を殺害した。 劉彧は劉子業の同腹である劉楚玉や劉子尚を賜死する一方で、劉子勛を車騎将軍、開府儀同三司としたが、鄧琬らはこれに応じず兵を収めなかった。 劉彧は465年の暮れに皇帝に即位して元号を泰始とすると、劉子勛側も明けて466年、皇帝に即位し元号を義嘉とした。 嫡統を鑑みれば劉子勛に分があり、多くの刺史が劉子勛に同調したが、劉子勛の本隊たる孫沖之、劉胡、袁顗らは劉彧の派遣した張興世や沈攸之に敗れた。

劉子勛は尋陽にて処刑された。 このとき、劉駿の子たちはこぞって兄である劉子勛を支持したため、劉彧は乱を平定したのち残った劉子勛の兄弟も殺さざるを得なかった。 とはいえ、いずれも十歳に満たない年少や幼児であり、彼ら個人の罪というよりはその取り巻きの罪を問うべきであるが、これを断行したことは事実上の族滅であった。 劉駿の男子を下表にまとめた。

出生順 爵位/諡号 生年 没年 生母 備考
1 前廃帝 劉子業 449 466 王憲嫄
2 豫章王 劉子尚 451 466 王憲嫄 劉彧による賜死
3 晋安王 劉子勛 456 466 陳淑媛 劉彧による賜死
4 安陸王 劉子綏 456 466 阮容華 劉彧による賜死
5 劉子深 ? 徐昭容 早世
6 尋陽王 劉子房 456 466 何淑儀 劉彧による賜死
7 臨海王 劉子頊 456 466 史昭華 劉彧による賜死
8 始平孝敬王 劉子鸞 456 465 殷淑儀 劉子業による賜死
9 永嘉王 劉子仁 457 466 徐昭容 劉彧による賜死
10 劉子鳳 ? 何婕妤 早世
11 始安王 劉子真 457 466 謝昭容 劉彧による賜死
12 劉子玄 ? 江婕妤 早世
13 邵陵王 劉子元 458 466 史昭儀 劉彧による賜死
14 斉敬王 劉子羽 458 459 殷淑儀
15 劉子衡 ? 江美人 早世
16 淮南王 劉子孟 459 466 楊婕妤 劉彧による賜死
17 劉子況 ? 江婕妤 早世
18 南平王 劉子產 459 466 徐昭容 劉彧による賜死
19 晋陵孝王 劉子雲 459 462 殷淑儀
20 劉子文 殷淑儀 早世
21 廬陵王 劉子輿 466 楊婕妤 劉彧による賜死
22 南海哀王 劉子師 460 465 殷淑儀 劉子業による賜死
23 淮陽思王 劉子霄 461 464 江婕妤
24 劉子雍 ? 謝昭容 早世
25 (未封) 劉子趨 466 何婕妤 劉彧による賜死
26 (未封) 劉子期 466 江美人 劉彧による賜死
27 東平王 劉子嗣 463 466 謝昭容 劉彧による賜死
28 (未封) 劉子悦 466 杜容華 劉彧による賜死

全二十八人の男子の内、劉子業廃位の禍を逃れたものは一人もいない。 劉子業から死を賜った劉子鸞は死に臨んで、

願身不復生王家。1

「願わくば再び王家に生まれることのないように」と左右に遺したという。 二十八人の兄弟でありながら、誰一人として兄弟が多いことを心強く思った者はいないであろう。 持つ者は奪い合う。 彼ら自身がそうは思わなくても、彼らに取り入って自らの富貴栄達を得ようとする者たちにとって、皇子という立場は利用すべき道具であった。 この言葉は、彼らが全く彼ら自身の意向とは関係なく運命を強制されたことを物語っている。

472
劉彧(明帝)が崩ずる

劉彧は在位六年、三十三歳で没した。 その間、張永、沈攸之らが北魏に敗北し、淮北の諸州、および豫州の淮西地域を失っている。 劉彧は温和で、著作を残すほどの知識人でもあった。 劉彧は劉駿の男子を全員賜死したが、そのような容赦のない刑の施行は、皇帝の地位を脅かすような場合に限り、それ以外はむしろ敵対者に対して寛大に努めたという。 劉彧は即位後も度々皇族を粛清しているが、それは彼が猜疑心強く残虐であったというよりは、劉彧を正統と見なさず彼を皇帝とする王朝の体制を良しとしない者たちがいかに多かったかと見るべきである。 一度玉座に座った以上、自身の保身と王朝の維持のためには殺さざるを得ない実情があったわけだが、先に述べたように皇族自身が本意で体制を覆そうとは思わなくても、配下の立身欲に突き上げられていたことは付記せねばならない。

劉彧の後、皇帝に即位したのは皇太子・劉昱である。 まだ九歳であった劉昱を袁粲と褚淵が後見した。 劉昱は中華史上でも屈指の暴君と評価されるが、これは後の斉への禅譲を正統化するために偏向した記録である可能性は否めない。 ましてや九歳の暴君などあり得るだろうか(これくらいの男の子はみな暴君なのだが…)。 あり得るのであれば、彼を取り巻く廷臣たちの罪を評価すべきであって、一人の少年を評価するのはあまりにも残酷である。 彼の残虐性を示す逸話はいくつか記録されているようだが、それはここでは触れない。

474
劉休範が反乱する
476
劉景素が反乱する
477
劉昱(後廃帝)が殺害される

劉昱の評価の明暗はともかくとして、劉彧が多くの皇族を粛清して保っていた体制を、九歳の少年に維持できるはずもなかった。 権勢の強い諸王を統制できるはずもなく、それは皇族の反乱へと繋がった。 だが、それでも劉昱の政権が五年にも及んだ背景には、ある男の影があった。 それが、後に禅譲を受けて斉を興す蕭道成である。 蕭道成は寒門に過ぎなかったが、元嘉の末年ごろから戦功を立て始め、劉彧の治世に驍騎将軍、南兗州刺史、西陽県侯となり、各地の反乱を鎮めることで衛尉、中護軍と栄進し自身の権力基盤を確立していった。

これに危機感を持った劉昱の派閥は蕭道成の失脚を目論んだが、これに先手を打った蕭道成によって劉昱は殺害された。 劉昱は皇太后・王貞風の令によって蒼梧王へと降下され、代わりに劉昱の弟・劉準が擁立された。 劉昱は十四歳、劉準は八歳であった。 なお、劉彧は肥満による健康障害で性的不能となり、諸王の側室が妊娠すると密かに後宮に入れて自身の子として産ませたという哀れな逸話がある。 劉準は弟・劉休範の実子であったという。

477
沈攸之が反乱する

蕭道成は劉準を擁立すると、侍中、司空、録尚書事、驃騎大将軍となって実権を握った。 この体制に異を唱える沈攸之、袁粲、劉秉らが続々と反旗を翻したが、蕭道成はこれを全て鎮め、相国、斉王に昇った。

479
劉準(順帝)が蕭道成に禅譲する(宋の滅亡)

劉宋帝室系図

  • 劉裕

    武帝

    1

    • 劉義符

      少帝

      2

    • 劉義真

      廬陵孝献王

      -

    • 劉義隆

      文帝

      3

      • 劉劭

        元凶

        -

      • 劉駿

        孝武帝

        4

        • 劉子業

          前廃帝

          5

        • 劉子勛

          晋安王

          -

      • 劉宏

        建平宣簡王

        -

        • 劉景素

          建平王

          -

      • 劉彧

        明帝

        6

        • 劉昱

          後廃帝

          7

        • 劉準

          順帝

          8

      • 劉休範

        桂陽王

        -

諡号 姓名 生年 即位 退位 没年 即位年齢 没年齢 在位期間
1 武帝 劉裕 363 420 422 422 57 59 2
2 少帝 劉義符 406 422 424 424 16 18 2
3 文帝 劉義隆 407 424 453 453 17 46 29
(皇太子) 劉劭 424 453 453 453 29 29 0
4 孝武帝 劉駿 430 453 464 464 23 34 11
5 (前廃帝) 劉子業 449 464 466 466 15 17 2
(晋安王) 劉子勛 456 466 466 466 10 10 0
6 明帝 劉彧 439 466 472 472 27 33 6
7 (後廃帝) 劉昱 463 472 477 477 9 14 5
8 順帝 劉準 469 477 479 479 8 10 2
平均 22.3 28.9 6.6

元嘉の治二十九年は宋王朝五十九年のおよそ半分を占める。

八人の皇帝が登極したが、実績の伴う代替わりは三回しか行われていない。 つまり、劉裕から劉義隆、劉義隆から劉駿、劉駿から劉彧という四人による三回の代替わりである。 残りの四人は形式上一度は皇帝となったものの、帝位継承の争いに巻き込まれて死んだ者たちである。 それに伴って多くの宗族が死んだことはこれまでに述べたとおりである。 劉劭は蟲毒を行った罪で廃太子された。 皮肉にも、宋王朝の宗室そのものが、代替わりの度に蟲毒を強いられていたかのような歴史的運命を感じざるを得ない。

歴代君主

劉裕

363年-422年。字は徳輿。劉宋の初代皇帝。武帝。劉翹の子。劉牢之に従い軍功を重ねた。劉牢之が失脚すると桓玄に属したが、桓玄が司馬徳宗を廃して皇帝を自称すると、劉毅・諸葛長民らと反乱した。桓玄を討って司馬徳宗を復位させるが、後に自ら皇帝となり宋を建国した。在位2年。

劉義符

406年-424年。劉宋の第2代皇帝。少帝。劉裕の第1子。父劉裕の死後即位した。傅亮、徐羨之、謝晦の輔弼を受けたが、言行に節度がなく信望を失った。音楽に精通し遊戯に明け暮れた。張太后の勅令を得た徐羨之らに廃位され、まもなく殺害された。在位2年。

劉義隆

407年-453年。劉宋の第3代皇帝。文帝。劉裕の第3子。兄劉義符が廃されると即位した。兄を殺害した罪で徐羨之らを処刑し朝廷を掌握した。元嘉の治と呼ばれる全盛を築くが、晩年は北魏の侵攻を受けて国内は乱れた。劉劭の廃嫡を考えるが、決起した劉劭に殺害された。在位29年。

劉駿

430年-464年。字は休龍。劉宋の第4代皇帝。孝武帝。劉義隆の第3子。皇太子であった兄劉劭が劉義隆を殺害すると、これを打つべく挙兵、皇帝に即位し、建康を陥落させ劉劭を処刑した。寒門を登用して中央集権を進めたが、残虐な一面も多く国を疲弊させた。在位11年。

劉子業

449年-466年。劉宋の第5代皇帝。前廃帝。劉駿の第1子。劉駿の死後即位した。性は残虐であり、劉義恭、柳元景、顔師伯、劉子鸞、何邁、沈慶之ら一族、重臣を次々と粛清し人望を失った。劉彧の側近である阮佃夫の襲撃を受けて殺害された。在位2年。

劉彧

439年-472年。字は休炳。劉宋の第6代皇帝。明帝。劉義隆の第11子。甥劉子業が暴虐であったため、殺害して皇帝に即位した。しかし世論を得られず反乱が頻発し、北魏の侵攻、財政難、賄賂の横行などに苦慮した。降伏には寛容である一方で多くの皇族を処刑した。在位6年。

劉昱

463年-477年。字は徳融。劉宋の第7代皇帝。後廃帝、蒼梧王。劉彧の第1子。父劉彧の死後皇帝に即位した。袁粲と褚淵の輔弼を受けた。劉休範や劉景素など皇族の反乱が絶えなかった。権勢を強める蕭道成の誅殺を計画するが、先手を打った蕭道成に殺害された。在位5年。

劉準

469年-479年。字は仲謀。劉宋の第8代皇帝。順帝。劉彧の第3子。兄劉昱が蕭道成に殺害されると蕭道成によって擁立された。沈攸之、袁粲は蕭道成打倒に挙兵するが、いずれも鎮圧された。蕭道成に禅譲を迫られ汝陰王に降格された。後に殺害された。在位2年。

主な宗族

劉子鸞

456年-465年。字は孝羽。劉駿の子。始平王。襄陽王、新安王から改封された。呉郡太守、南徐州刺史、司徒、中書令などの重職を兼任した。幼少にしてこの待遇であり、常々嫉視していた兄・劉子業から賜死を受けた。死に臨んで再び皇族には生まれたくないと言葉を残した。

主な人物

謝晦

390年-426年。字は宣明。陳郡陽夏県の人。陳郡謝氏の出身で謝安の兄・謝拠の曾孫。東晋朝廷を掌握する劉裕に従い北伐、土断を行った。劉裕の死後、劉義符の補佐を任されたが、劉義隆擁立の政変に関わった。徐羨之らと共に政権を握り荊州刺史となるが、劉義符殺害の罪を問われ檀道済の討伐を受けた。刑死。

徐羨之

364年-426年。字は宗文。東海郡郯県の人。徐祚之の子。東晋の太子少傅の主簿を務め、桓玄が楚を興すと劉裕の挙兵に従った。劉裕の死に際し傅亮、謝晦、檀道済と共に劉義符の補佐を遺言された。劉義符の廃位を進め劉義隆を即位させた。やがて専横が目立つようになり、劉義符殺害の罪を問われて自害した。

傅亮

374年-426年。字は季友。北地郡霊州県の人。傅玄の来孫。傅瑗の子。東晋の時代に劉裕政権の下で昇進を重ねた。宋が建つと侍中、中書令を歴任した。建国の功臣として建城県公に封じられた。劉義符の廃位に関わり劉義隆を迎えたが、劉義符殺害の罪を問われ処刑された。

王華

385年-427年。字は子陵。琅邪郡臨沂県の人。王廞の子。王恭と王国宝の争いの中で父・王廞が行方不明となり、恩赦を受けるまで逃亡生活の幼少期を過ごした。後に劉裕によって喪中が発せられ、正式に服喪した。劉義隆に仕えて、張邵の失脚後その職務を代行した。

王曇首

394年-430年。字は子陵。琅邪郡臨沂県の人。王珣の子。劉義隆に仕えて属官として昇進し、劉義隆の即位に伴って中央に入り、侍中、驍騎将軍を務めた。王華らと共に劉義隆政権の確立に務め、その功は多大であった。兄・王弘が劉義康から妬まれたとき、兵を分配することを勧めた。

謝恵連

397年-433年。陳郡陽夏県の人。謝方明の子。何長瑜に師事し文才で名を挙げた。男色関係があったほか、喪中に詩を贈ったとして流刑となった。才能を愛した殷景仁に弁護され彭城王・劉義康の属官となった。残した詩文は美文として評価される。

謝霊運

385年-433年。字は宣明。陳郡陽夏県の人。謝瑍の子。謝玄の孫。東晋の康楽公を継いだが、宋では侯に降格された。永嘉郡太守、秘書監、侍中を務めながらも度々辞職し詩作に没頭した。隠遁しつつも生活は豪勢で、騒乱の罪を得て広州に流刑された。道中、脱走の容疑で処刑された。

檀道済

?-436年。劉裕に仕えて、桓玄の乱や北伐を転戦して宋朝建国の功臣となった。劉義符の廃位に加担するもその後の罪を逃れた。のちに北伐を行い、対北魏戦線の要として軍の最高職を務めたが、勢威を恐れた劉義隆に殺害された。『三十六計』の著者。

劉湛

392年-440年。字は弘仁。南陽郡安衆県の人。劉柳の子。前漢の長沙王・劉発の末裔。宰相を志して管仲や諸葛亮に憧れた。劉裕の属官として厚遇を受けた。宋が成ると諸王の属官を務めつつ中央職を昇進した。劉義康が朝廷を専横するとこれを補佐したため、劉義隆に逮捕、処刑された。

殷景仁

390年-441年。陳郡長平県の人。殷道裕の子。劉毅の属官を経て劉裕に従い、そのまま宋の成立と共に入朝した。当初は劉湛との関係も良好で、荊州に出向した劉湛の呼び戻しを推薦したが、後に一方的に劉湛からは憎まれた。病を称して家に留まること五年におよび、その間、劉義隆との書簡の往来で職務を全うした。

王球

393年-441年。字は倩玉。琅邪郡臨沂県の人。王謐の子。王導の玄孫。太守として統治に優れ、中央に入って侍中、州大中正、中書令を歴任した。権臣との過度な交流を避け顔延之ら文人との交友を持った。持病のため解任されたが無官のまま劉義隆の諮問が絶えなかった。

范曄

398年-445年。字は蔚宗。南陽郡順陽県の人。会稽郡山陰県の生まれ。范寧の孫。范泰の子。名門、順陽范氏の人。奇特ともいうべき奔放さがあり、度々不祥事を起こしては避難を買った。左遷された任地で『後漢書』を編纂した。後に、劉義康の反乱に加担したとして処刑され、一門は断絶した。

顔延之

384年-456年。字は延年。琅邪郡臨沂県の人。顔顕の子。名門だったが父を早くに亡くし没落した。書物に通じたが、酒癖が悪く、長らく独身だった。晩年の陶潜と交際し、その死を悼んだ。朝廷の権力闘争の中で常に警戒され、数度の左遷と長い謹慎を経た。晩年は、秘書監、光禄勲、太常を歴任した。

鮑照

414年-466年。字は明遠。東海郡襄賁県の人。貧しい家柄に生まれ、臨川王・劉義慶に仕えたほか、臨海王・劉子頊の下で前軍参軍を努めた。劉子頊が反乱すると、混乱のなか殺害された。詩人として高名で、その作風は通俗的と批判される一方で、躍動的にして新奇的であり、後世に大きな影響を残した。

阮佃夫

427年-477年。会稽郡諸曁県の人。元嘉年間に湘東王劉彧に仕えて劉彧に信任された。劉彧が劉子業に監禁されると、諸方と連絡を取り合って劉子業の廃位を計画、実行した。対抗する反乱には軍を率いて転戦した。劉彧の死後、劉昱の廃位を実行したが失敗し処刑された。

沈攸之

?-478年。字は仲達。呉興郡武康県の人。沈叔仁の子。若くして父を亡くし困窮した。元嘉の治が終わるころ、北魏の外患に備えるため徴兵された。劉駿以来4代に仕えて車騎大将軍、開府儀同三司まで昇った。劉昱が廃位されると挙兵して反乱したが、離反が相次ぎ華容にて横死した。


  1. 『宋書』巻八十列伝第四十 孝武十四王 ↩︎

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